第百六十六話 「土佐の合議」
本能寺まであと三百七十六日
土佐。
長宗我部元親 の居城。
海風が城下を吹き抜ける中、織田からの使者を迎える空気は張り詰めていた。
城内。
広間には重臣たちが並ぶ。
視線の先には――
明智光秀。
織田の重臣。
信長の側近。
そして今は、信忠の師でもある男。
長宗我部元親は静かに光秀を見ていた。
「久しいな、日向守」
光秀も礼を返す。
「お久しゅうございます、元親殿」
だが。
和やかさはそこまでだった。
重臣たちの目は鋭い。
当然である。
織田は今や天下人に最も近い存在。
その使者が来た意味など、一つしかない。
臣従か。
戦か。
元親は単刀直入に言った。
「して」
「織田は四国をどうしたい」
静寂。
光秀は落ち着いた声で答えた。
「四国を滅ぼしたいわけではありませぬ」
その言葉に、重臣たちの眉が動く。
光秀は続ける。
「長宗我部殿による四国統一」
「織田はそれを認める用意があります」
空気が変わった。
ざわめき。
当然だった。
織田が認める。
それは四国制覇への大きな後ろ盾になる。
だが重臣の一人が鋭く言う。
「その代わりに首輪をつけるのであろう?」
光秀は否定しない。
「織田への臣従は必要です」
「織田銭の流通」
「瀬戸内海航路への協力」
「必要時の兵の供出」
「これらは条件となります」
別の重臣が声を上げる。
「結局は支配ではないか!」
「四国を取らせ、その後飲み込む気だろう!」
空気が張る。
だが光秀は一切動じなかった。
「飲み込めるならば、既に大軍が来ております」
その一言で場が静まる。
確かにそうだった。
今の織田なら。
本気で潰すなら、 信忠を総大将に大軍を送り込めば良い。
それをしていない。
つまり。
今はまだ“使う”段階。
元親は腕を組む。
「……なぜだ」
「なぜ織田はそこまでして我らを残す」
光秀は静かに答えた。
「戦を減らすためです」
その場の誰もが少し驚いた。
光秀は続ける。
「今、織田と長宗我部が戦えば、互いに疲弊する」
「そして最も得をする者がいる」
元親の目が細くなる。
「毛利か」
「はい」
光秀は頷いた。
「西で毛利が息を吹き返し」 「九州では島津が勢いを増す」
「さらに東では北条も動くやもしれませぬ」
「天下が定まる前に、大戦を増やす意味がない」
その言葉に、重臣たちも黙る。
理解していた。
今の織田は強い。
だが同時に、 各地の大名たちもまだ生きている。
ここで織田と長宗我部が潰し合えば。
漁夫の利を得る者が必ず出る。
光秀はさらに言った。
「若様――信忠様は申されました」
「長宗我部を敵として滅ぼすより」 「四国をまとめる柱として使うべきだ、と」
元親は少し驚いたように笑う。
「若いのに、随分と先を見る男だ」
光秀もわずかに笑った。
「良き御方です」
その声音には、 本心からの信頼が滲んでいた。
すると別の重臣が問う。
「だが織田は信用できるのか」
「四国を統一させた後、攻め込まぬ保証はあるまい」
鋭い問いだった。
光秀は静かに答える。
「保証など、この戦国にはありませぬ」
その場が静まる。
「ですが」
「今の織田に従う方が、生き残る可能性は高い」
「逆らえば、いずれ戦になります」
「それは皆様も理解されているはず」
誰も反論できなかった。
元親は深く息を吐く。
彼も分かっていた。
今の織田は異常だ。
武だけではない。
銭。
交易。
物流。
全てで天下を飲み込み始めている。
堺すら従わせた。
長宗我部だけで抗える相手ではない。
光秀はさらに一つの策を示す。
「織田は交易も約束します」
「塩」 「鉄」 「兵糧」
「長宗我部側へ優先的に流す」
重臣たちがざわつく。
それはつまり。
戦の継続力そのもの。
四国統一の速度が大きく変わる。
「敵対勢力には流しませぬ」
光秀は静かに言った。
「戦わずして差がつく」
元親はそこでようやく笑った。
「恐ろしいな、織田は」
「兵より先に商いで首を締めるか」
光秀は否定しない。
「天下を治めるとは、そういうことなのでしょう」
その言葉に、元親はしばらく沈黙した。
やがて。
静かに言う。
「……すぐには決められぬ」
「重臣たちとも話す必要がある」
光秀は深く頷いた。
「もちろん」
「本日はそのために参ったのです」
その夜。
長宗我部家中では遅くまで合議が続いた。
従うか。
抗うか。
だが。
多くの者が理解していた。
織田と真正面から戦う未来は、 あまりにも重い。
そして。
光秀の言葉には嘘がなかった。
今、織田と戦って得をするのは毛利。
それは元親自身も痛いほど分かっていた。
土佐の夜。
海の向こうでは、 織田の船団が静かに海を支配し始めていた。




