第百六十五話 「四国への使者」
本能寺まであと三百七十八日
岐阜城。
夜。
政務の間には三人の姿があった。
織田信忠。
明智光秀。
そして玉。
机には四国の地図。
土佐。
阿波。
讃岐。
伊予。
そして瀬戸内海の海路。
信忠は静かに地図を見ていた。
「父上は認めてくださった」
「ならば次は長宗我部だ」
光秀が頷く。
「臣従させつつ、四国を統一させる」
「容易ではありませぬ」
玉は静かに言った。
「ですが、長宗我部元親は理解する方だと思います」
信忠が目を向ける。
玉は続けた。
「今の織田に正面から逆らえば、いずれ滅びる」
「ですが従えば、四国統一を許される可能性がある」
「どちらが得かは理解するはずです」
光秀は腕を組んだ。
「問題は、どう話を持っていくか」
「脅しだけでは駄目」
「だが甘く見せてもならぬ」
信忠は小さく笑った。
「難しいな」
玉も微笑む。
「だからこそ殿は父上を送り出すのでしょう」
その言葉に光秀が少し驚く。
「……私を?」
玉は頷いた。
「長宗我部と父上は縁があります」
「敵としてではなく、交渉相手として見てもらえる」
「そして父上なら、“織田の理”を伝えられる」
光秀は静かに息を吐いた。
確かに。
武だけではこの話はまとまらない。
今必要なのは、
四国を織田の秩序へ組み込む言葉。
それだった。
信忠が真っ直ぐ光秀を見る。
「光秀殿」
「頼めるか」
光秀は深く頭を下げた。
「はっ」
「若様と殿の御意のままに」
その時だった。
襖の外から声。
「失礼いたします」
入ってきたのは早馬。
安土からの使いだった。
信忠が文を受け取る。
信長から。
短い。
だが力強い文。
――光秀を送れ。 ――四国を織田の鎖に繋げ。 ――ただし、長宗我部を侮るな。
信忠は笑った。
「父上も同じ考えか」
光秀も静かに笑う。
「殿らしい」
玉は少し安堵する。
歴史が変わっている。
本来なら。
四国は大軍で押し潰される流れだった。
だが今は違う。
外交。
交易。
臣従。
織田は戦だけで天下を取ろうとしていない。
光秀は地図を見る。
長宗我部元親。
四国をほぼ手中に収めつつある男。
だが。
織田と敵対すれば未来はない。
問題は、
どう頭を下げさせるか。
光秀は静かに言った。
「条件を整理いたしましょう」
「まず、四国統一は認める」
「ただし織田への臣従」
「織田銭の流通」
「瀬戸内海航路への協力」
「必要時の兵の供出」
信忠が頷く。
「従属大名、だな」
玉はさらに口を開く。
「あともう一つ」
二人が玉を見る。
「“敵に回るより得だ”と思わせることです」
「恐怖だけでは長続きしません」
「利益を与えなければ」
光秀が目を細めた。
「利益……」
玉は地図の海路を指す。
「堺との交易です」
「塩」 「鉄」 「兵糧」
「これらを優先的に流せば、長宗我部は四国統一を一気に進められる」
「逆に敵対勢力には流さない」
信忠は思わず笑った。
「兵を送らず戦を操るか」
「お前らしい」
玉は少し照れながらも答えた。
「戦は少ない方が良いですから」
光秀は静かに頷いた。
「……なるほど」
「確かに、それなら長宗我部も断れぬ」
「織田なくして四国統一は成らぬと理解する」
しばらく沈黙。
その後、信忠が言った。
「では決まりだ」
「光秀殿」
「四国へ向かってくれ」
光秀は深く礼をする。
「必ずや」
その目には迷いがなかった。
かつて京で疲弊し、 孤立し、 追い詰められていた男とは思えない。
今の光秀には、
守るべき家族がいる。
支える若殿がいる。
そして信長からの信頼がある。
玉はそんな父を見て思った。
――もう、本能寺を起こす父ではない。
歴史は変わった。
確実に。
だが。
変わったからこそ、 次に何が起きるかは誰にも分からない。
夜風が岐阜城を吹き抜ける。
西は織田の支配下へ。
そして今。
四国までもが、 織田の秩序へ飲み込まれようとしていた。




