第百六十四話 「東を見る者」
安土城。
朝靄が琵琶湖を覆う頃。
信長は既に政務の間にいた。
机の上には各地から届いた文。
堺。
毛利。
北陸。
そして岐阜。
その中から、信忠の文を手に取る。
信長は静かに読み進めた。
――四国策による家中不満の芽について。
――東国への圧力を兼ね、八丈島方面への海路調査を提案。
――北条、里見水軍への監視。
――船団運用の可能性確認。
信長の口元が僅かに歪む。
「……東、か」
その一言には、興味が混じっていた。
帰蝶が茶を置く。
「岐阜からにございますか」
「うむ」
信長は笑った。
「玉と信忠、それに光秀だな」
帰蝶もすぐ理解する。
単純な軍議ではない。
これは、
“織田の次の時代”
を考えた動きだった。
信長は地図へ目を落とす。
西。
そこは既に織田の圧が強い。
毛利は追い詰められ。
四国は長宗我部を使う。
堺は支配下。
ならば次は東。
自然な流れだった。
だが信長は軽率に動く男ではない。
「北条は大物だ」
「刺激すれば関東がまとまる」
帰蝶は静かに頷く。
「ゆえに調査、にございますな」
信長は笑う。
「そうだ」
「いきなり攻める必要はない」
「まずは見る」
「海を見て、人を見て、欲を見ろ」
信長の目が鋭くなる。
「関東の武将どもが、誰を嫌い」 「誰を恐れ」 「誰に不満を抱いているか」
「それを知らねば利用できん」
信長は立ち上がる。
そして家臣を呼ばせた。
しばらくして現れたのは――
滝川一益。
信長配下でも特に“関東慣れ”した男。
忍び。
情報戦。
調略。
その全てに長ける。
滝川は膝をつく。
「お呼びにございますか」
信長は単刀直入に言った。
「東を見ろ」
滝川の目が細くなる。
「……北条にございますか」
「それだけではない」
信長は地図を指した。
「関東全てだ」
「上杉残党」 「北条」 「里見」 「佐竹」
「誰がどこと繋がり、どこが割れているか調べろ」
滝川は静かに頷く。
信長はさらに続けた。
「それと海だ」
「船がどこまで動ける」 「補給はどうなる」 「八丈島を使えるか」
「全て調べろ」
滝川は一瞬だけ驚いた。
「八丈島……?」
信長は笑う。
「面白い話だろう」
「島一つで東を睨む」
「戦国らしくない」
「だが嫌いではない」
帰蝶はその様子を見ていた。
信長は気に入っている。
今の織田は、ただ敵を斬るだけではない。
交易。
補給。
物流。
海路。
それらを全て戦に変え始めていた。
滝川が問う。
「調査だけでよろしいので?」
信長は即答する。
「まずはな」
「今は北条を慌てさせるな」
「だが、“織田が東を見る”ことだけは知らせろ」
滝川は低く笑った。
「威圧、にございますな」
「そうだ」
信長の目が獰猛に光る。
「人は見えぬ敵より」 「見えている強者を恐れる」
「恐れれば、勝手に疑い始める」
「北条と関東諸侯を揺らせ」
滝川は深く頭を下げた。
「はっ」
滝川が去った後。
帰蝶が静かに言う。
「信忠たちは、よくここまで考えましたな」
信長は鼻で笑った。
「光秀がいるからな」
「そして玉だ」
「戦国の女とは思えん」
帰蝶は微笑む。
「ですが殿」 「その玉を正室にしたのは織田にございます」
信長は豪快に笑った。
「違いない」
一方、岐阜。
信忠たちはまだ結果を知らない。
だが光秀は静かに言った。
「殿なら、まず調べます」
信忠が笑う。
「父上は慎重だからな」
玉は少し安心したように息を吐く。
いきなり大戦にはならない。
まずは情報。
それならばまだ制御できる。
だが玉は思う。
織田は確実に東へ目を向け始めた。
西を制し。
中央を押さえ。
次は関東。
天下統一への流れは、もう止まらない。
そして。
巨大になればなるほど。
人の欲もまた、大きくなる。
本能寺まであと三百六十二日




