第百六十三話 「東への楔」
岐阜城、奥。
夜も更けた頃。
玉は静かに文へ目を通していた。
それは侍女たちが集めた“奥の声”。
酒席で漏れた不満。
家臣の奥方が漏らした愚痴。
家中で流れる噂。
表では忠義を尽くしていても、人の心までは隠せない。
玉は一枚の文で手を止めた。
――四国攻めがなくなれば、武功の場が減る。
――長宗我部を生かせば、誰が恩賞を得るのだ。
――また明智と若様の策か。
玉は静かに目を伏せた。
やはり、と思う。
今の織田は強い。
強すぎる。
西では、
京を押さえ。
堺を押さえ。
毛利へ圧力をかけ。
長宗我部を臣従させつつ四国統一を進める。
全てが順調だった。
だが順調すぎる。
戦国武将とは、本来“戦で功を立てる存在”。
戦が減れば。
領地が増えなければ。
恩賞が止まれば。
不満は必ず溜まる。
玉は静かに呟く。
「……このままでは、いつか噴き出す」
それは前世の知識だけではない。
今、奥の空気が変わり始めている。
表向きは織田一強。
だが裏では、
誰が次に上へ行くのか。
誰が多くの領地を得るのか。
その計算が始まっていた。
玉は立ち上がった。
「父上と信忠様に会います」
その夜。
政務の間。
信忠と光秀は地図を広げていた。
西国。
北陸。
関東。
織田の勢力圏が広がるほど、考えるべきことも増えていく。
そこへ玉が現れる。
信忠が微笑む。
「遅かったな」
玉は軽く頭を下げ、すぐに本題へ入った。
「武将たちに不満が出始めています」
空気が変わる。
光秀が静かに問う。
「理由は」
「四国です」
玉は答えた。
「長宗我部を使う策は理にかなっております」 「ですが武功を立てる場が減る」
「恩賞を求める武将たちには、それが不満となり始めています」
信忠は腕を組んだ。
「……やはりか」
光秀も頷く。
「大軍を動かさぬほど、武将たちは暇になりますゆえ」
玉は続ける。
「戦が減るのは良いことです」 「ですが、戦国の武士は戦でしか己を示せぬ者も多い」
「不満は抑え込むだけではなく、流す先が必要かと」
信忠は地図へ目を落とした。
「西はもう十分動いている」
「なら東か」
玉は静かに頷いた。
「上杉は割れております」
「関東も一枚岩ではありません」
「北条は大きいですが、織田が直接攻め込めば逆に結束する可能性があります」
光秀が目を細める。
「……楔を打つ、か」
「はい」
玉は地図の海へ指を置いた。
「ここです」
信忠が目を向ける。
「八丈島……?」
玉は頷いた。
「小さくとも拠点を置く」
「海路の補給地点にし、関東への睨みを利かせる」
「さらに東国の海の流れを調べることもできます」
光秀が考え込む。
「関東へ直接兵を送るのではなく、海から圧をかける……」
玉は続けた。
「北条と里見の水軍は気になります」
「ですが今の織田には大船があります」
「堺を押さえ、船団も増えております」
「正面から海戦になっても、決して不利ではないかと」
信忠が笑った。
「お前は本当に、戦だけで物を考えないな」
玉も少し笑う。
「戦だけでは天下は維持できませんから」
光秀は静かに口を開いた。
「八丈島を押さえれば、伊豆から関東の海を見ることができる」
「さらに補給拠点にもなる」
「悪くありません」
信忠は腕を組んだまま考える。
「だが北条を刺激しすぎれば、関東がまとまるぞ」
玉は頷いた。
「だからこそ“攻める”のではなく、“睨む”のです」
「今は武将たちに動く場所を与える」
「そして関東に、織田が東にも目を向け始めたと見せる」
信忠は地図を見つめた。
東。
そこはまだ、織田の手が完全には届いていない世界。
だが逆に言えば。
次の戦場にもなり得る。
光秀が静かに言う。
「若様」
「四国で不満を持つ者たちを、東へ向けますか」
信忠は小さく笑った。
「ちょうど良い」
「戦を欲するなら、働いてもらう」
玉はその横顔を見ていた。
信忠は変わり始めている。
かつては猛々しい武将の顔が強かった。
だが今は違う。
戦だけでなく、家中全体を見始めている。
信忠は立ち上がった。
「父上へ文を出す」
「東への海路調査」 「船団増強」 「伊豆方面の監視」
「まずはそこからだ」
光秀が深く頷く。
「承知」
玉は静かに息を吐いた。
火種は消えていない。
だが流れを変えることはできる。
不満を外へ流し、織田を一つに保つ。
それが今、自分にできることだった。
夜。
岐阜城の外では、鋳造所の槌音が響いている。
織田銭が増えるたび、織田は強くなる。
そしてその強さが、次の野望を呼び込む。
本能寺まであと三百六十八日




