第百六十二話 「四国という鎖」
安土城。
夕刻。
琵琶湖から吹き込む風が、政務の間の障子をわずかに揺らしていた。
信長は机に向かい、各地から届いた文を流れるように捌いていく。
北陸。
中国方面。
堺。
京。
その中に、岐阜からの文があった。
信忠からである。
信長は無言で封を切った。
――四国について、進言申し上げ候。
信長の目が細まる。
さらに文を読み進めた。
――長宗我部を敵とするより、臣従させ四国を統一させるべきにございます。
――さすれば毛利の西への逃げ道を封じることができまする。
――さらに四国を押さえることで九州への睨みも可能となり、島津への圧力ともなりましょう。
――これは天下布武を速める策と存じます。
信長の指が止まった。
その先を読む。
――また、四国統一を後押しするため、交易を用いて支援すべきにございます。
――敵対勢力には塩、鉄、兵糧などの流通を制限。
――長宗我部側へ優先的に流すことで、戦を長引かせることなく四国をまとめさせる。
――堺の商人には織田の命として徹底させるべきと考えまする。
――現在の堺は、織田の銭なしでは立ち行きませぬ。
信長はそこで文を置いた。
静寂。
帰蝶が静かに問う。
「信忠からにございますか」
信長は鼻で笑った。
「面白いことを考えおる」
帰蝶は文を受け取り、静かに目を通す。
その表情が僅かに変わった。
「……戦ではなく、商いで四国を支配するおつもりにございますか」
信長は立ち上がる。
「そこだ」
「そこが面白い」
信長は窓の外を見た。
安土の城下。
人。
銭。
物流。
全てが織田へ集まっている。
信長は呟く。
「力で押し潰せば、反発が残る」
「だが銭で縛れば、自ら頭を下げる」
帰蝶は静かに笑った。
「玉の考えも入っておりますな」
信長は否定しなかった。
信忠一人ではない。
貨幣。
交易。
物流支配。
これは明らかに、玉の影響が強い。
信長は再び文を見る。
毛利の逃げ場をなくす。
四国を長宗我部にまとめさせる。
九州への睨み。
その発想は単なる戦好きの武将では出てこない。
完全に“天下の形”を考えていた。
信長は笑う。
「良い」
「実に良い」
その笑みは獰猛だった。
「毛利を囲う」 「四国を使い九州を睨む」
「しかも、こちらは大軍を出さずに済む」
信長は机を指で叩く。
「戦を減らし、支配を増やすか」
「信忠め、ようやく天下人の思考になってきたわ」
帰蝶は静かに言う。
「では、長宗我部を許すので?」
信長は即答しなかった。
少し沈黙する。
その目は鋭い。
「許す、ではない」
「使うのだ」
信長は冷たく笑った。
「四国を統一させる」 「だが、その上で織田に頭を下げさせる」
「天下は一つで良い」
「四国も、いずれ織田の鎖に繋ぐ」
信長はすぐに命を下した。
「堺へ命を出せ」
「長宗我部と敵対する勢力には、塩と鉄を流すな」
「兵糧の取引も制限しろ」
帰蝶が確認する。
「長宗我部側には?」
信長は笑った。
「流せ」
「存分にな」
「ただし恩を売る」
「織田がなければ四国統一は成らぬと思わせろ」
その頃。
岐阜城。
信忠は静かに地図を見ていた。
四国。
瀬戸内。
九州。
海路。
それが今後の鍵になる。
そこへ光秀が入ってくる。
「若様」 「安土より早馬が」
信忠は顔を上げる。
光秀は微かに笑った。
「殿より」
信忠は文を受け取る。
短い。
だが信長らしい文だった。
――面白い。 ――好きにやれ。 ――ただし長宗我部を調子に乗らせるな。
信忠は思わず笑った。
「父上らしい」
光秀も静かに頷く。
「認められましたな」
信忠は文を握る。
これで織田は変わる。
武だけではない。
交易。
貨幣。
物流。
それら全てで天下を縛る。
信忠は静かに言った。
「父上は、天下布武を戦で終わらせる気はない」
光秀が答える。
「はい」
「もはや国作りにございます」
奥では、玉がその報せを聞いていた。
信長が認めた。
つまり。
歴史がまた変わった。
本来なら四国攻めは、大軍を送り潰す流れだった。
だが今は違う。
経済で縛る。
臣従させる。
玉は静かに思う。
戦国の終わり方そのものが、変わり始めている。
安土。
信長は夜の城下を見下ろしていた。
銭が流れる。
人が集まる。
商いが国を変える。
信長は笑った。
「天下布武」
「まだまだ速くなるぞ」
本能寺まであと三百七十日




