第百五十八話 「光秀に下された密命」
岐阜城、本丸。
広間には家臣が並び、堺の件の報告が終わったところだった。
堺は締まった。
奉行所は立ち、織田銭の流通も乱れはない。
誰もが安堵の空気を漂わせていた。
だが信長だけは盃に手を付けず、静かに上座から全員を見下ろしていた。
信長は口を開いた。
「堺は締まった」
家臣たちは黙って頷く。
信長は続けた。
「だが、次は内だ」
その一言で、空気が変わった。
信忠が目を細め、光秀は静かに背筋を伸ばす。
信長は淡々と言った。
「銭が動けば、欲が動く」
「欲が動けば、味方が割れる」
「戦が終わる前に家中が割れれば終わりだ」
そして信長は、光秀を見た。
「光秀」
光秀は一歩進み、頭を下げる。
「はっ」
信長は言った。
「調べよ」
光秀の表情は変わらない。
信長は続ける。
「堺の件で功が偏った」
「偏りを妬む者が必ず出る」
「それがただの愚痴なら良い」
「だが欲は、やがて刃になる」
信長は低い声で命じた。
「酒席での言葉」
「家臣同士の文のやり取り」
「金の動き」
「全て調べよ」
「火が付く前に、火種を抜け」
広間の家臣たちは、誰も声を出さなかった。
信長の言葉は、ただの注意ではない。
疑いを向ける宣言だった。
光秀は静かに答えた。
「承知いたしました」
信長は釘を刺すように言う。
「名を挙げるな」
「証拠を持ってこい」
「疑いだけで斬れば、俺が国を壊す」
光秀は深く一礼した。
「必ず、形にして参ります」
その夜。
光秀は自室に戻り、灯明を一つだけ灯した。
机の上に白紙の巻物を広げ、墨を擦り、筆を取る。
最初に書いたのは家中の名だった。
柴田勝家
丹羽長秀
滝川一益
羽柴秀吉
そして古参の者たちの名。
光秀は筆を止め、静かに息を吐いた。
敵を斬るのは容易い。
味方を疑うのは難しい。
だが信長は、その難しい仕事を自分に命じた。
それは信頼であり、同時に試しでもあった。
光秀はさらに書き足す。
堺
堺の商人が吐いた名。
堺が探りを入れていた事実。
そして男が言った最後の言葉。
「背後に武家の影がある」
光秀は目を細めた。
堺は沈黙した。
だが沈黙は従属であり、同時に恨みでもある。
恨みは必ず誰かに利用される。
その利用する者が、織田家中にいるかもしれぬ。
翌朝。
光秀は静かに動き始めた。
表向きは堺奉行所の整備の確認。
商人との取引の再調整。
京への文の整理。
だが裏では、別の動きを進める。
信頼できる与力を呼び寄せる。
商人に紛れた者を動かす。
茶屋に耳を置く者を放つ。
光秀は命じた。
「銭の流れを追え」
「誰が堺と文を交わしているか」
「誰が新しい銭を嫌がっているか」
「誰が損をし、誰が得をしているか」
「欲の匂いを嗅げ」
岐阜城の奥。
玉は帰蝶のもとで、奥向きの学びを続けていた。
文の書き方。
贈り物の順序。
家臣の奥方への礼。
宴席での立ち回り。
玉は筆を走らせながら、胸の奥が落ち着かなかった。
堺は締まった。
織田銭は守られた。
だがそれで終わりではない。
むしろここからが始まりだ。
銭は国を整える。
だが銭は、必ず争いを呼ぶ。
玉は心の中で思う。
私は正室になった。
もう守られるだけではない。
織田を守る側だ。
その頃。
光秀は岐阜城下の茶屋にいた。
武将の家臣が集まる場所。
酒が入り、口が緩む場所。
光秀は穏やかに笑い、盃を差し出す。
「近頃、岐阜は賑やかですな」
男は酔いながら答える。
「賑やかすぎる」
「銭が変わり、儲けの形も変わった」
光秀は静かに問う。
「不満があるのですか」
男は笑った。
「不満など言えるか」
「言えば首が飛ぶ」
だがその笑いの裏に、光秀は確かな匂いを嗅いだ。
不満はある。
それも強い不満が。
光秀は盃を傾けながら思う。
火種は確かにある。
あとはそれが、誰の手に握られているか。
それを突き止めねばならない。
岐阜の夜は静かだった。
だがその静けさの裏で、光秀は獣のように匂いを追っていた。
そして玉は奥で筆を走らせながら、胸の奥で思った。
順調な時ほど危険は近い。
歴史は変わっている。
だが人の欲は変わらない。
その欲が、次の戦を呼ぶ。
玉はそう確信していた。
本能寺まであと三百九十一日




