第百五十七話 「沈黙の堺、ざわめく織田」
堺を締め上げた報は、瞬く間に天下へ広がった。
商人の町が屈し、会合衆が膝をつき、織田の旗が港に立った。
その光景は、武将たちにとっては痛快であり、商人にとっては恐怖であった。
だが、最も震えたのは商人ではない。
織田家中だった。
堺の商いは巨大だ。
その財布を握った者は、国の血流を握る。
そしてその手は今、信忠へ渡った。
堺の奉行所。
信忠は机の前に座し、積み上げられた帳簿を眺めていた。
米、塩、鉄、木綿、和紙、薬種、海産物。
流通の道筋が一本一本、墨で書き込まれている。
光秀が静かに言った。
「若様、商人は恐怖で縛るだけでは従いませぬ」
信忠は頷く。
「分かっている」 「恐怖で屈しても、必ず裏で牙を研ぐ」
光秀は続けた。
「ゆえに、堺には生きる道を与えねばなりませぬ」
信忠は顔を上げた。
「道とは」
光秀は淡々と言う。
「織田の銭を使えば利益が出る」 「織田に従えば富が増える」 そう思わせる仕組みです」
信忠は小さく笑った。
「なるほどな」
光秀は帳簿の一つを指差した。
「まずは両替所を奉行所の管理下に置きます」 「両替の比率は一定にし、暴利を禁じる」
「堺の者に儲けさせつつ、織田が必ず上前を取る形にする」
信忠は頷いた。
「堺に自由は与えぬが、商いの道は残す」 「それが最も苦しいな」
光秀は静かに答える。
「商人は生きるために頭を下げます」 「だが頭を下げた瞬間から、従属が始まる」
信忠は立ち上がり、窓の外の港を見た。
港には織田の旗。
その下で商人たちが荷を運び、黙々と働いている。
信忠は呟いた。
「堺は沈黙した」
光秀は頷く。
「沈黙は従属です」 「だが同時に、恨みもまた沈黙の中で育ちます」
その時、奉行所の役人が駆け込んだ。
「若様!岐阜より急使!」
信忠は振り向く。
「申せ」
役人は息を切らしながら告げた。
「岐阜にて、家中の空気が揺れております」
信忠の眉が動く。
「揺れ……?」
役人は続けた。
「堺を締めた功が若様に集まりすぎていると」 「それを快く思わぬ者が、酒席で口にしております」
光秀は静かに目を閉じた。
信忠は舌打ちした。
「……早いな」
光秀は淡々と告げる。
「若様」 「敵は外だけではありません」
「家中が最も揺れるのは、勝っている時です」
信忠は拳を握りしめた。
「俺はただ、父上のために動いた」
光秀は静かに言う。
「それでも功は功」 「功が偏れば、妬みが生まれます」
信忠はしばらく黙った。
そして言った。
「岐阜へ戻る」
岐阜城。
信長の前に、帰還した信忠と光秀が座していた。
信長は上機嫌だった。
「堺はどうだ」
信忠は答える。
「奉行所は整いました」 「両替所も管理下に置きました」 「堺は商いを続けています」
信長は笑った。
「よい」
光秀が続ける。
「商人は恐怖だけでは従いませぬ」 「利益を与え、従属させる形に整えました」
信長は頷いた。
「さすがだ」
だが信忠は言った。
「父上、家中が揺れております」
信長の目が細くなる。
「何だ」
信忠は淡々と告げた。
「堺を締めた功が私に集まりすぎたと」 「酒席で不満を漏らす者がいます」
信長は笑った。
「馬鹿どもめ」
だがその笑いは軽くない。
信長は盃を置き、低い声で言った。
「光秀」
光秀は頭を下げる。
「はっ」
信長は言う。
「家中を締めろ」 「堺よりも厄介なのは、内の欲だ」
光秀は静かに答える。
「承知」
信忠は拳を握った。
「父上、誰が動いているのですか」
信長は笑った。
「誰でもよい」 「欲は誰にでもある」
「だが俺は知っている」 「欲が牙を剥く前に、潰せばいい」
その瞬間、信忠は背筋に冷たいものを感じた。
父は天下人だ。
そして天下人は、味方すら斬る。
その夜。
玉は奥でその報を聞いていた。
堺は沈黙した。
織田銭は守られた。
だがその代わり、家中が揺れ始めた。
玉は思う。
歴史は変わっている。
光秀は家族となり、謀反の芽は消えた。
だが、謀反とは芽が一つだけで起こるものではない。
欲。
妬み。
恐怖。
焦り。
それらが重なった時、誰かが火をつける。
玉は小さく息を吐き、窓の外の闇を見た。
闇は静かだった。
だが闇の中で、確かに何かが動いている。
本能寺まであと三百九十三日




