第百五十一話 「銭の覇」
岐阜城の夕餉は、静かに始まった。
城下の賑わいは祝言の余韻を残し、夜になっても灯りが消えない。
戦の世であることを忘れさせるほどに、岐阜は豊かだった。
だが、その豊かさの裏で、国を支える根はまだ脆い。
銭。
それが今の織田の悩みであった。
今宵の席には五人が揃っていた。
信長。
帰蝶。
信忠。
光秀。
そして玉。
織田の中心が一堂に会する食卓は、武将たちの戦議よりも重い空気を帯びる時がある。
膳には汁物、焼き魚、香の物、季節の煮物。
そして盃。
信長は盃を手に取り、ひと口含んでから笑った。
「よいな」 「戦の報が届かぬ夜は、酒がうまい」
光秀は控えめに頷く。
「は……」
信忠は静かに箸を進めていた。
祝言の翌日から、城の空気はどこか変わった。
信忠が家中の中心として見られ始めている。
玉はその横で、正室として膳に向かっていた。
帰蝶は淡々と茶を飲みながら、皆の様子を見ている。
玉はしばらく迷った。
だが、今の織田に必要なのは、ただの祝いではない。
国を固める策だ。
玉は箸を置き、背筋を正して口を開いた。
「殿」
信長の目が玉に向く。
「申せ」
玉は落ち着いて言葉を紡いだ。
「荒銭のことにございます」
信忠の箸が止まり、光秀がわずかに顔を上げた。
信長は鼻で笑う。
「腐った銭の話か」 「今の世の銭は、銭とも言えぬ」
玉は頷いた。
「はい」
「荒銭は欠け、錆び、薄く、混じり」 「商人も民も、価値を測れず困っております」
帰蝶が静かに言った。
「商いは銭で止まる」 「銭が止まれば、国も止まる」
玉はその言葉を受けるように続けた。
「そこで殿」 「全国で普及させる必要はございませぬ」
信長が眉を上げる。
「ほう」
玉は言った。
「織田の支配地域のみでよいのです」 「織田が新たな貨幣を作り」 「織田領内では、その銭でしか取引できぬ仕組みを作る」
「商人はその銭を持たねば商売ができず」 「必ず織田の銭を求めます」
信忠が低く呟いた。
「……織田の銭でしか商いができぬ」 「それは、国そのものを縛る策だ」
光秀も静かに頷く。
「見事にございます」 「戦をせずして国を固める」
信長は玉を見据えたまま言った。
「続けよ」
玉はさらに踏み込んだ。
「そして殿」 「今流通している荒銭は、見栄えも悪く、かさばります」 「銭の形をしておりながら、信用がない」
「そこで荒銭を回収し、溶かすのです」
信長の目が細くなる。
「溶かす、か」
玉は頷く。
「はい」 「溶かせば、金銀が少しではありますが取れまする」
その瞬間だった。
信忠が思わず顔を上げた。
「……金銀が?」
帰蝶の目が僅かに動いた。
光秀も驚きを隠せず、声を落とした。
「荒銭から……金銀が取れると?」
信長は箸を止めたまま、玉を見た。
「……ほう」 「それは初耳だ」
玉は静かに頷いた。
「荒銭は混ぜ物が多くございます」 「銅だけではなく、わずかに金銀が混じっております」
「それを集め、溶かし、沈殿させ」 「取り分ければ、少量でも確実に取れます」
信長は低く笑った。
「なるほどな……」
信忠が呟く。
「鉱山を掘るより早い……」
帰蝶は淡々と口を開いた。
「荒銭を集めるだけで、金銀が取れる」 「しかも荒銭の流通を減らせる」
「一石二鳥どころではない」
光秀が静かに言った。
「銭を回収することで、織田の新銭に置き換えられる」 「その時点で商人の首根っこを押さえられます」
玉は頷いた。
「はい」
信長は盃を置き、玉を見て言った。
「……玉」 「これは、面白い」
玉は深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
だが玉は、ここで終わらせなかった。
さらに慎重に言葉を重ねる。
「ただし殿」 「銭を潰し溶かす過程で、毒のようなものが出ます」
信忠が眉を寄せた。
「毒?」
玉は頷いた。
「はい」 「煙や粉が体に入れば、咳が出、胸が痛み、体を悪くします」
帰蝶が目を細める。
「……なるほど」 「鉛のようなものが混じっているのだな」
玉は頷く。
「その恐れがございます」
光秀が即座に言った。
「ならば、職人が倒れます」
玉は言った。
「はい」 「ですので隔離した施設を作り」 「溶かす者は口を布で覆い」 「煙を吸わぬようにするべきにございます」
信忠が息を吐いた。
「……そこまで考えているのか」
玉は視線を落とし、静かに言った。
「織田のためにございます」
信長はしばらく沈黙していた。
食卓の空気が、静かに重くなる。
そして信長は、ゆっくりと笑った。
「良い」
信忠が顔を上げる。
信長は続けた。
「銭を握れば、民を握れる」 「民を握れば、国を握れる」
「刀で天下を取るだけでは足りぬ」 「銭で天下を縛る」
信忠が静かに言った。
「父上、これは……織田の根を太くします」
信長は頷く。
「そうだ」 「これは戦の勝ちよりも大きい」
帰蝶は淡々と告げた。
「殿、奥としても助かります」 「銭が整えば、奥への出入りも整う」 「贈り物も、支払いも、混乱が減ります」
信長は帰蝶を見て笑う。
「お前は銭の話になると機嫌が良いな」
帰蝶は涼しい顔で返す。
「殿が浪費家だからでございます」
信忠が苦笑し、光秀も思わず目元を緩めた。
信長は玉に言った。
「玉」 「この策、形にできるか」
玉は迷わず答えた。
「はい」
光秀が口を開いた。
「殿、銭を作るなら」 「刻印をはっきりさせ、偽造を防がねばなりませぬ」
信忠も頷く。
「偽造を許せば、信用が崩れる」
玉は言った。
「その通りにございます」 「刻印を強く、縁を厚くし」 「欠けにくい銭を作るべきです」
信長は満足げに笑った。
「よい」
そして信長は信忠を見た。
「信忠」
「は」
「お前はこれを覚えておけ」 「天下を治めるとは、刀を振るうことではない」 「銭を整え、民を動かすことだ」
信忠は深く頷いた。
「心得ました」
光秀は静かに目を伏せた。
信忠がこうして一つずつ学んでいくことが、どれほど大切か。
光秀には痛いほど分かる。
玉は胸の奥で思った。
これは戦ではない。
だが確かに、国を変える戦だ。
信長は最後に盃を上げた。
「よい夜だ」 「銭の話で腹が満ちたわ」
皆が盃を取る。
帰蝶が静かに言った。
「殿、銭で天下を縛るなら」 「本当に天下が見えてきます」
信長は笑った。
「天下など、すでに目の前よ」
玉はその言葉を聞きながら、胸の奥で小さく誓った。
この国を、戦のない国へ。
そのために必要なのは、刀だけではない。
銭も、仕組みも、信用も。
その夜、岐阜城の奥では、静かに未来が形を持ち始めていた。
本能寺まであと四百二十九日




