第百五十話 「奥の耳」
岐阜城の奥は静かだった。
戦の報が届き、武将たちが忙しなく出入りしていても、奥向きだけは別の世界のように落ち着いている。
だが、その静けさは「何もない」という意味ではない。
むしろ奥は、城の中で最も情報が集まる場所だった。
玉は帰蝶の部屋に呼ばれ、膝を揃えて座していた。
帰蝶は何事もない顔で茶を口に運ぶ。
「玉」
「はい」
「昨日の噂の件、奥の者に探らせた」
玉の背筋が自然と伸びた。
「……もう動かれたのですか」
帰蝶は淡々と頷く。
「動かぬ者は、動かされる」 「奥はそういうものだ」
玉は息を呑んだ。
帰蝶は続けた。
「城下に普段見ぬ者が多いのは確かだ」 「祝言の賑わいに紛れている」
玉は言った。
「他国の間者でしょうか」
帰蝶は目を細めた。
「それもある」
玉は胸の奥が冷えるのを感じた。
帰蝶は、扇を膝に置き、静かに言った。
「だが、もっと厄介なのは」 「他国の者ではない」
玉の目がわずかに見開かれる。
帰蝶は淡々と告げた。
「織田の中の者だ」
玉は思わず言葉を失った。
帰蝶は続ける。
「城下で動いているのは商人」 「だが商人は、誰の金で動く」
玉は、喉が乾くのを感じた。
「……織田の武将の誰かが」
帰蝶は頷いた。
「そうだ」
玉は口元を押さえた。
「そんな……今は祝言の後で、家中がまとまっているはずでは」
帰蝶は冷たく笑った。
「まとまっているように見えるだけだ」
「祝言は祝いだが」 「祝いとは、欲を呼ぶ」
玉は視線を落とした。
帰蝶は、淡々と続ける。
「信忠が正室を迎えた」 「それはつまり、次の世が始まったということ」
「誰が次の世で上に立つか」 「誰が新しい国をもらうか」 「誰が信忠に近づけるか」
「それを考えぬ者はおらぬ」
玉は静かに頷いた。
帰蝶の言う通りだった。
戦に勝ち、領地が増えれば増えるほど、人は欲を隠せなくなる。
そして、その欲は必ず「言葉」になる。
玉は問うた。
「帰蝶様、誰が動いているのですか」
帰蝶はしばらく黙っていた。
そして、茶を一口飲んでから言った。
「名はまだ出せぬ」
玉は拳を握った。
「ですが……」
帰蝶は扇を少しだけ開き、玉を見据える。
「玉」 「名を出せば、疑いが形になる」
「疑いが形になれば、敵は隠れる」 「敵が隠れれば、見えなくなる」
玉は息を呑んだ。
帰蝶は続ける。
「だから、泳がせる」
玉は頷いた。
「……はい」
帰蝶は言った。
「奥の者に、さらに耳を増やす」 「茶屋、湯屋、呉服屋、薬種屋」 「祝いの席に集まる女たちの口から、必ず漏れる」
玉は帰蝶の言葉の重さを噛みしめた。
女たちは戦場に出ない。
だが女たちは、戦の火種を最初に嗅ぎ取る。
帰蝶は、ふと声を落とした。
「玉、お前は今、信忠の正室だ」
「奥を守るだけではない」 「信忠を守るのもお前の役目だ」
玉は小さく頷いた。
「はい」
帰蝶は続ける。
「信忠は優しい」 「だが優しさは、刃になり得る」
玉は胸が痛んだ。
信忠の優しさは、玉にとって救いだった。
だが同時に、敵にとっては隙だ。
玉は静かに言った。
「私は、若様の隙を埋めます」
帰蝶は目を細め、わずかに笑った。
「その意気だ」
その時、襖の向こうから声がした。
「帰蝶様、若様がお見えです」
玉の胸が跳ねる。
帰蝶は扇を閉じた。
「入れ」
襖が開き、信忠が入ってくる。
信忠は玉を見ると、ほんの一瞬だけ表情を柔らかくした。
だがすぐに、若様としての顔に戻る。
「母上、玉」 「少し話がある」
玉は姿勢を正した。
「はい」
信忠は言った。
「城下が賑わっている」 「祝いは良いが、兵の目を増やした」
帰蝶が淡々と返す。
「当然だ」
信忠は続けた。
「だが妙だ」 「商人の数が多すぎる」 「見慣れぬ者が混じっている」
玉は息を呑んだ。
信忠も気づいている。
帰蝶は静かに言った。
「若様、良い勘だ」
信忠は眉を寄せる。
「勘ではない」 「これは……匂う」
玉はその言葉に、背筋が冷えた。
信忠は戦の匂いを嗅ぎ取る男だ。
その信忠が「匂う」と言うのなら、ただの噂では済まない。
信忠は玉を見た。
「玉、怖いか」
玉は一瞬迷った。
だが正室として、迷いは見せられない。
玉は微笑み、静かに答えた。
「怖くはございません」
信忠の目が少しだけ柔らかくなる。
玉は続けた。
「ですが、油断はできませぬ」 「この城を守るために、私は学びます」
信忠は頷いた。
「よい」
帰蝶は淡々と告げた。
「若様、奥のことは私が見る」 「お前は表を見よ」
信忠は短く頷いた。
「分かった」
信忠は立ち上がり、襖へ向かう。
その背に、玉は思った。
この人は、強い。
そして優しい。
だからこそ、守らねばならぬ。
信忠が出ていった後、帰蝶は玉に視線を向けた。
「見たか」
玉は頷いた。
「若様も気づいております」
帰蝶は静かに言った。
「そうだ」 「つまり敵は、もう動いている」
玉は胸の奥で呟いた。
平穏は、永遠ではない。
だが平穏を守るために、私はここにいる。
奥の耳が集める情報は、やがて織田を救う。
その時が来るまで、玉は学び続ける。
学びながら、警戒する。
穏やかな岐阜の空気の中で、見えぬ刃が静かに研がれていた。
本能寺まであと四百三十日




