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細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


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第百四十九話 「穏やかな波紋」

岐阜城の朝は、澄んでいた。

城下の賑わいは商人たちの声が遠くから響いてくる。

屋台の匂い。

人々の笑い声。

馬の蹄の音。

天下はまだ戦の最中にあるというのに、岐阜だけが一瞬、春のような顔をしていた。


玉は奥向きの部屋で筆を取っていた。

帰蝶から教わった作法を、繰り返し手の中に落とし込む。

文の折り方。

封の仕方。

言葉の選び方。

誰にどの順で送るべきか。

一つの文にも、織田の正室としての重みがある。


その隣で、帰蝶が静かに見守っていた。

「玉」

「はい」

「文は短く、しかし曖昧にするな」

「はい」

「そして礼を欠くな。礼は武よりも恐ろしい」

玉は頷き、筆を止めずに書き続ける。


その時だった。

襖の向こうで、控えめな足音が止まった。

「奥方様、失礼いたします」

侍女の声。

玉は顔を上げる。

「どうしたのです」

侍女は慎重に襖を開け、頭を下げた。

「城下の噂が……少々、気になるものがございます」

帰蝶の視線が鋭くなる。

玉は胸の奥がざわついた。

「噂?」

侍女は小声で言った。

「若様の祝言を機に、城下に人が集まりすぎております」

「祝いに見せかけて、他国の者が紛れているのでは、と」


玉は一瞬、息を呑んだ。

帰蝶は何も言わず、茶を一口飲む。

玉は侍女に尋ねた。

「その噂は、誰が言っているのです」

侍女は答える。

「商人たちです」 「普段見ぬ顔が多い、と」

玉は静かに頷いた。

祝言は城を潤す。

だが同時に、城を危うくする。

賑わいは、目を曇らせる。

帰蝶が淡々と言った。

「下がれ」

侍女は頭を下げ、襖を閉めた。


玉は帰蝶を見た。

「帰蝶様……」

帰蝶は扇を膝に置いたまま、静かに言う。

「祝いとは、隙を生む」

玉は頷いた。

帰蝶は続けた。

「だが殿はその隙すら利用する」 「人が集まれば、金が動く」 「金が動けば、城は潤う」

「しかし」 「その中に毒が混ざることもある」

玉は胸が冷たくなった。


帰蝶は玉を見た。

「お前はどう思う」

玉は言葉を選んだ。

「城下が賑わうのは良いことです」 「ですが、今は戦の世」 「祝いに紛れて何者かが入り込むことはあり得ます」

帰蝶は頷いた。

「そうだ」

玉は続けた。

「私は……」 「噂はただの噂であってほしいと思います」

帰蝶は目を細めた。

「思うのは勝手だ」 「だが、備えは別だ」


玉は背筋を伸ばした。

「はい」

帰蝶は静かに立ち上がった。

「玉、学びは続けよ」 「だが、奥の者たちの目を増やせ」

玉は顔を上げる。

「目を……」

帰蝶は淡々と告げた。

「奥は女が動かす」 「女が動けば、誰にも気づかれずに探れる」

「城下の茶屋」 「呉服屋」 「薬種屋」 「料理屋」

「そこに耳を置け」

玉は思わず息を呑んだ。

帰蝶は続ける。

「影など使わずともよい」 「女の噂ほど早いものはない」


玉は頷いた。

「……はい」

帰蝶は玉の机の文束を指した。

「そして、信忠の耳にはまだ入れるな」

玉は驚いた。

「なぜですか」

帰蝶は言った。

「信忠は優しい」 「優しい者は、疑うのが遅れる」

玉は胸が痛んだ。

確かに信忠は、柔らかい。

だからこそ、家臣に慕われる。

だがそれは同時に、隙にもなる。


帰蝶は言った。

「殿には、私から伝える」 「お前は余計な荷を背負うな」

玉は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

帰蝶は淡々と答えた。

「礼は要らぬ」 「織田の奥を守るのは私の務め」 「お前は学び、信忠を支えよ」


玉は小さく息を吐いた。

学びを続けるだけでは、落ち着かぬと思っていた。

だが帰蝶は、学びと警戒を両立させる術を示した。

奥向きの女たちの目。

それは影よりも自然で、影よりも強い。

玉は思った。

織田の奥は、ただの暮らしではない。

ここもまた戦場だ。

帰蝶が部屋を出て行った後、玉は再び筆を取った。

だが、文を書く手は少しだけ違っていた。

文字を整えながらも、耳は外に向けている。


心は、常に警戒している。

穏やかな岐阜の朝。

しかしその穏やかさの中に、確かに波紋が生まれていた。

玉は胸の奥で呟く。

まだ何も起きていない。

だが、何かが動き始めている。

それだけは分かる。


本能寺まであと四百三十一日

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