第百四十七話 「奥の戦」
岐阜城の朝は早い。
鶏の声が響く前から、奥向きでは女たちが動き始めていた。
廊下を足音が行き交い、湯殿の湯が沸かされ、衣が整えられ、香が焚かれる。
城はすでにいつもの岐阜に戻っていた。
玉は鏡の前に座していた。
髪を梳かれながら、ぼんやりと己の顔を見つめる。
昨日までの少女の面影は、まだ残っている。
だが、その奥に何かが加わった。
正室という重み。
織田の娘としての覚悟。
それが、玉の眼差しに滲み始めていた。
背後に立つ侍女が言った。
「奥方様、髪を結い終えました」
奥方様。
その呼び名を聞くたび、玉は胸が締まる。
まだ慣れぬ。
だが慣れねばならぬ。
玉は小さく頷き、立ち上がった。
そこへ、襖がそっと開く。
帰蝶が入ってきた。
その足取りは静かで、衣の擦れる音すら控えめだった。
玉は慌てて頭を下げる。
「帰蝶様」
帰蝶は手を上げ、軽く制した。
「よい。今日は礼は省け」
玉は顔を上げた。
帰蝶は玉の顔をじっと見つめ、ふっと息を吐く。
「……顔つきが変わったな」
玉は頬が熱くなる。
「まだ、何も……」
帰蝶は鼻で笑った。
「何もない女の顔ではない」
玉はさらに顔を赤くし、目を逸らした。
帰蝶は畳に座し、淡々と言った。
「さて。今日からが本当の始まりだ」
玉は背筋を正した。
帰蝶は続ける。
「正室は、夫の隣に座るだけの飾りではない」
「奥を束ねる」
「奥を治める」
「奥の者たちを動かす」
玉は静かに頷いた。
帰蝶は扇を膝に置き、さらに言う。
「そして奥は戦場だ」
玉はその言葉を聞き、心が引き締まった。
帰蝶は目を細めた。
「奥は血が流れぬ分、陰湿だ」
「言葉で人を殺す」
「噂で人を追い落とす」
「涙で敵を作る」
玉は息を呑んだ。
帰蝶は淡々と続けた。
「お前は若い」
「若い正室は、狙われる」
玉は思わず尋ねた。
「誰に……」
帰蝶は一瞬だけ笑った。
「誰でもだ」
玉は言葉を失った。
帰蝶は玉の沈黙を見て、少し声を和らげる。
「だが恐れる必要はない」
「お前は賢い」
「そして信忠は、お前を守る」
玉は胸が熱くなった。
帰蝶は言った。
「だが守られるだけでは足りぬ」
「守る側になれ」
玉は深く頷いた。
「はい」
帰蝶は満足そうに頷き、机の上の文束を指差した。
「まずはこれを読む」
玉は近づき、文束を手に取る。
差出人の名が並んでいた。
佐久間。
丹羽。
滝川。
森。
池田。
そして奥方たちの名もあった。
玉は目を見開いた。
「こんなに……」
帰蝶は言った。
「祝言を済ませた正室には、挨拶が殺到する」
「だが挨拶とは、探りでもある」
玉は唇を噛んだ。
帰蝶は続ける。
「誰が早く来るか」
「誰が贈り物を厚くするか」
「誰が媚びるか」
「誰が控えるか」
「それで、家の思惑が見える」
玉は文を一通ずつ丁寧に読み始めた。
祝いの言葉。
忠義の言葉。
家の繁栄を願う言葉。
しかし帰蝶の言葉が頭を離れない。
探り。
玉は文の行間を読むように、目を細めた。
そこへ廊下から足音。
襖が開き、侍女が頭を下げる。
「奥方様、若様がお見えでございます」
玉の心臓が跳ねた。
「……信忠様が?」
帰蝶は小さく笑う。
「呼べ」
侍女が下がり、すぐに信忠が姿を現した。
信忠は甲冑ではなく、柔らかな直垂姿だった。
それだけで、武ではなく政の顔をしている。
信忠は帰蝶に頭を下げた。
「母上」
帰蝶は頷く。
「どうした」
信忠は玉を見た。
その眼差しは昨日よりも近い。
夫としての距離だった。
「玉」
「今日も学びの場を設けた」
玉は頷いた。
「はい」
信忠は少し照れたように頭を掻いた。
「……その、奥のことも大事だと光秀殿が申しておった」
玉は思わず笑いそうになった。
光秀が信忠にそんなことを言う姿が目に浮かぶ。
帰蝶は鼻で笑う。
「光秀は余計なことを言う」
信忠は慌てた。
「い、いえ。余計ではなく……」
玉は口元を押さえ、笑いを堪えた。
帰蝶は扇を軽く振る。
「よい。座れ」
信忠は畳に座した。
玉もその隣に座る。
帰蝶は二人を見比べる。
「信忠」
「は」
「お前は玉を正室に迎えた」
「ならば奥のことも玉に任せる覚悟を持て」
信忠は真剣な顔になった。
「心得ております」
帰蝶は玉を見る。
「玉」
「はい」
「お前は信忠を支える」
「だが同時に、お前は織田の娘として殿を支える」
玉は深く頷いた。
「はい」
その場に、短い沈黙が落ちた。
和やかでありながら、空気は鋭い。
四人とも分かっている。
この学びは遊びではない。
未来を決めるものだ。
信忠が言った。
「玉」
「今日から、文の返しはお前と共に考えたい」
玉は驚いた。
「私と……ですか」
信忠は頷いた。
「お前は賢い」
「俺には分からぬことも、お前なら気づく」
玉は胸が熱くなった。
「はい」
帰蝶はその様子を見て、僅かに微笑んだ。
「よい」
「夫婦とはそういうものだ」
玉は思った。
自分は今、守られている。
だが同時に、守る側に立ったのだ。
奥を治めること。
文を読むこと。
人を動かすこと。
それは戦と同じ。
刃がないだけで、死がある。
玉は静かに息を吸った。
信忠の隣で、未来を作る。
それが自分の戦い。
そう心に刻んだ。
本能寺まであと四百三十七日




