第百四十三話「朝の挨拶」
夜が明けた。
岐阜城の廊下には、まだ薄い冷気が残っていたが、障子越しの光は柔らかく、どこか春を思わせる色を帯びていた。
玉は、信忠の隣を歩いていた。
昨日までと変わらぬはずの廊下。
変わらぬはずの畳の感触。
けれど、玉の歩みはほんの少しだけ違っていた。
それは痛みというより、身体が覚えた新しい重さ――いや、何かが変わった感覚。
玉は顔を上げない。
髪を整え、衣を整え、いつも通りにしている。
だが、どこか。
ほんの僅かに、色が違う。
信忠はそれを横目で見て、胸の奥が静かに熱くなった。
(昨夜で……玉は、妻になった)
言葉にすれば軽い。
だが、事実は重い。
玉はまだ十五。
しかし戦国の世では、それは幼さの理由にはならぬ。
彼女はもう、織田の正室。
自分の妻だ。
信忠は咳払いをして、足を止めた。
襖の前。
信長と帰蝶がいる部屋だ。
玉も足を止め、背筋を伸ばす。
信忠が静かに息を吸う。
「……参るぞ」
玉は小さく頷いた。
信忠は襖に手をかけ、迷いなく開けた。
「信忠にございます」
部屋の中は、朝の光が差していた。
信長は座したまま、茶を手にしている。
帰蝶はその傍で、落ち着いた顔で二人を見た。
信長の目が、まず信忠を見た。
次に玉を見た。
そして、ほんの一瞬だけ口元が歪む。
「……ほう」
帰蝶は扇を閉じたまま、静かに笑った。
「来たか」
玉は畳に膝をつき、深く頭を下げた。
「おはようございまする」
信忠も続けて膝をつく。
「昨夜は、無事に祝言を終えました。改めてご挨拶に参りました」
信長は茶を置き、ゆっくりと言った。
「無事……な」
その言い方に、帰蝶が小さく肩を揺らす。
信忠は表情を崩さぬが、耳がわずかに赤い。
信長は玉をじっと見た。
「玉」
玉は顔を上げる。
「はい」
信長は言った。
「……顔つきが変わったな」
玉は一瞬、言葉を失った。
帰蝶が笑みを深める。
「殿、からかいすぎにございます」
信長は肩をすくめる。
「からかっておるのではない。事実だ」
玉は頬を染め、視線を落とした。
信忠はその様子を見て、内心で苦笑した。
(殿は……こういう時も容赦がない)
信長は腕を組み、淡々と続ける。
「昨夜で、玉は織田の娘だ」
「そして信忠の正室となった」
その言葉は、改めて重かった。
帰蝶も頷く。
「これからは、奥に入る者たちも皆、お前を主と仰ぐ」
玉は静かに息を吸い、頭を下げた。
「身に余ることでございます」
信長はふっと笑った。
「身に余る? ならば余るほど働け」
帰蝶が口を挟む。
「殿」
「玉はまだ若い。まずは覚えることを――」
信長は手を上げて遮った。
「若いからこそだ。余計な遠慮を覚える前に、己の才を使え」
信忠は信長の言葉を聞きながら、玉を見た。
玉は黙っている。
だが、目は揺れていない。
信長はさらに言った。
「何かしたいと思うことがあれば、遠慮なく申せ」
「奥向きのことでもよい。政でもよい。人の使い方でもよい」
「お前が思うなら、それを形にしてみせよ」
玉はゆっくり顔を上げた。
「……はい」
信長は満足そうに頷いた。
「玉はな、珍しいものを作る」
「珍しい考えを持っておる」
「その珍しさは、時に武器になる」
帰蝶が静かに言った。
「玉」
「お前は、明智の娘として生まれた」
「だがこれからは、織田の正室として生きる」
「その覚悟だけは、忘れるな」
玉は強く頷いた。
「はい」
信忠が、少し柔らかい声で言った。
「父上、母上」
「玉は、私が守ります」
信長は鼻で笑った。
「守るだと?」
「守られるだけの女なら、我は正室にせぬ」
信忠は少し黙り、それでも言った。
「……共に立つ、という意味にございます」
信長は目を細めた。
「ならばよい」
帰蝶は、玉の表情を見て、静かに言った。
「玉」
「辛いこともある」
「織田の正室は、ただの妻ではない」
「時に、刀よりも冷たい言葉を使わねばならぬ」
玉は一瞬、息を呑んだ。
だがすぐに答えた。
「承知しております」
信長が笑った。
「よい面構えになった」
信忠は、玉の横顔を見て思った。
昨夜の玉とは、また違う。
一夜を越えた女の顔だ。
それは幼さが消えたのではない。
覚悟が、輪郭を持ったのだ。
信長は立ち上がり、二人を見下ろした。
「よいか」
「祝言は終わったが、戦は終わらぬ」
「織田はまだ進む」
「お前たちは、その中心に立つのだ」
信忠は深く頭を下げた。
「ははっ」
玉も頭を下げる。
「はい」
帰蝶は小さく微笑んだ。
「では、朝餉の席に来なさい」
「今日からは、夫婦として座るのだ」
玉は少しだけ頬を赤らめた。
信忠はその様子に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
そして、二人は並んで部屋を出た。
廊下を歩く玉の足取りは、まだ少しぎこちない。
だが、その背筋は美しく伸びていた。
信忠は思った。
(玉は、変わった)
(いや……変わっていくのだ)
この岐阜城の奥で。
この天下の中心で。
自分の妻として。




