第百四十一話「祝言」
岐阜城の朝は、いつもより静かだった。
風の音すら控えめで、城全体が息を潜めているようだった。
だが城の中では、早朝から人が動いていた。
女中、侍女、料理方、膳部、酒役。
誰もが口を結び、ただ忙しく手を動かしていた。
今日は祝言。
織田家嫡男、織田信忠の婚姻の日である。
大広間には次々と家臣たちが集まり、座が埋まっていく。
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、佐久間信盛。
羽柴秀吉は西国にあり不在だが、使者と祝儀は届いていた。
笑い声はある。
だがそれは浮かれたものではない。
武家の婚姻とは、祝うと同時に、家の契りを確認する場である。
やがて城門の方が騒がしくなった。
嫁入り道具が運び込まれてきたのだ。
本来なら輿入れの行列が組まれ、供回りが付き、
嫁が実家から嫁ぎ先へと入る。
だが玉はすでに岐阜城に住んでいる。
だから今日の「輿入れ」は、道具の搬入がその役目を果たす。
明智の家から運ばれる長持。
衣、道具、櫛、鏡、文台。
そして花嫁としての持参金。
城内の者たちは、静かにそれを見守った。
帰蝶がすでに玉のための従者を揃えているため、
余計な供回りはない。
だが、道具が運び込まれるその一つ一つが、
明智家が娘を送り出した証であり、
織田家がそれを迎え入れた証だった。
やがて、広間の空気が変わった。
玉が現れた。
衣装は華やかだった。
若さを包み込むように、重く、そして気品がある。
家紋が刺され、織田と明智の結びつきを示していた。
玉はゆっくりと進み、定められた位置で膝をついた。
視線を上げれば、信忠がいる。
信忠は正装に身を包み、堂々としていた。
だがその目は、玉を見た瞬間だけ柔らかくなった。
帰蝶が静かに合図をする。
祝言の中心――三三九度。
盃が運ばれた。
漆黒の盃。
中には澄んだ酒が満ちている。
一度目。
信忠が盃を取り、口をつける。
玉へ渡す。
玉が受け、口をつける。
二度目。
三度目。
その所作はゆっくりで、儀式としての重みがあった。
次の盃。
同じように三度。
さらに次の盃。
また三度。
合計九度。
盃を交わした瞬間、
この場にいる全員が理解した。
契りは結ばれた。
これが武家の婚姻であり、
これが織田の正室の誕生である。
その時だった。
明智光秀が、そっと目頭を押さえた。
誰にも悟られぬように。
だが隣の者は気づいた。
光秀の肩がわずかに震えている。
光秀は武将であり、織田の重臣である。
だが今日だけは違う。
ただの父だった。
信長が立ち上がった。
広間の視線が一斉に集まる。
信長は玉を見下ろし、そして信忠を見た。
「これにて」
「玉は織田の娘となり」
「信忠の正室となった」
その声は低く、よく響いた。
家臣たちは深く頭を下げる。
信長は続けた。
「玉はまだ若い」
「だが、その才覚は皆も知っておろう」
広間に小さな笑いが起きる。
「これまで織田に忠誠を尽くし」
「妙な策を思いつき」
「時に我らを驚かせてきた」
信長は口元を歪めた。
「玉であれば、帰蝶とともに奥を束ね」
「また、とんでもない策を思いつくやもしれん」
家臣たちは笑った。
場の空気が和らぐ。
玉は顔を伏せ、頬を染めた。
信忠は頭をかきながら、照れたように笑った。
祝言は次の段へ移る。
宴である。
膳が運ばれ、香りが広間を満たしていった。
まずは鯛の尾頭付き塩焼き。
祝いの膳に欠かせぬもの。
続いて酒。
澄酒。
最上のものが用意されていた。
そして――異様な膳が運ばれる。
一人用の鍋。
見慣れぬ作り。
湯気が立ち、甘い香りが漂う。
家臣たちがざわめいた。
「これは何だ」
「鍋が一人ずつ……?」
玉が事前に厨へ教えた料理。
すき焼きである。
肉と野菜を煮込み、濃い味で仕上げる。
だが生卵は危険であるため、使わない。
代わりに胡麻ダレ。
そして柑橘系の酢醤油。
誰も食べたことのない味。
最初に箸をつけたのは柴田勝家だった。
口に入れた瞬間、目を見開く。
「……ほう」
丹羽長秀も食べ、思わず笑った。
「これは……酒が進むな」
広間にどよめきが広がる。
皆が口々に言った。
「うまい」
「初めてだ」
「これは戦の前に食えば力が出る」
酒が回り、笑い声が増えていく。
家臣たちは口々に信忠へ祝辞を述べた。
「若様、おめでとうございます」
「跡継ぎを頼みましたぞ」
信忠はその度に照れたように頭をかいた。
「……励む」
その姿に、広間はまた笑いに包まれる。
玉は信忠の顔を見ては頬を染めた。
信忠もまた、玉を見るたび目を細める。
互いに言葉にはせぬ。
だが、視線だけで十分だった。
宴は長く続いた。
酒が注がれ、膳が進み、
家臣たちの結束もまた強まっていく。
「これで織田の天下は揺るぎない」
誰かが言った。
別の者が頷いた。
「若様が立ち、玉様が奥を束ねれば」
「織田は盤石だ」
祝いは夜まで続き、
岐阜城は灯に包まれた。
玉はふと、胸の鼓動を感じた。
自分は今日、信忠の妻になった。
そして織田の娘になった。
父の表情を思い出す。
目頭を押さえた光秀の姿が、胸を締め付けた。
そして信忠が隣にいる。
明日からは、もう戻れない。
その現実が、嬉しくもあり、怖くもあった。
だが玉は、ゆっくりと息を吐いた。
この祝言は、確かに温かかった。
戦国の世であっても、
人はこうして笑い合える。
そのことが、玉には救いだった。




