第百四十話「帰還、そして方針」
岐阜城の内は、婚姻の準備で慌ただしかった。
女中たちは走り、裁縫師は針を動かし、料理方は献立を整え、祝儀の品が次々と運び込まれていく。
誰もが口にするのは、ただ一つ。
若様の婚姻。
織田家にとって、これ以上ない慶事であった。
その日、城門が開かれた。
信忠の帰還。
そして、明智光秀の帰還。
馬の蹄の音が石畳を叩き、家臣たちが整列して迎える。
城内の空気が一段と明るくなった。
玉は帰蝶に伴われ、出迎えに立った。
胸が高鳴る。
手が冷たくなる。
そして――信忠の姿が見えた。
凛とした姿。
旅の疲れはあるはずなのに、その背筋はまっすぐだった。
玉は思わず息を呑む。
信忠は玉を見つけ、わずかに目を細めた。
その表情だけで、玉の胸は熱くなった。
隣には光秀がいた。
京にいた頃よりも顔色は良い。
だが目だけは、いつもより柔らかかった。
玉が一歩進み出ると、光秀がすぐに口を開いた。
「玉……体調は大丈夫か」
玉は笑顔で答える。
「父上、もう……」
光秀が眉を寄せる。
「無理はしておらぬか」
玉は吹き出しそうになり、堪えきれず笑った。
「もう五回目だよ、それ聞くの」
信忠も、思わず声を漏らして笑った。
「確かに。京へ向かう前にも、同じことを言っておられた」
光秀は一瞬、きょとんとし――そして苦笑した。
「……そうか」
その顔は、いつもの明智光秀ではなかった。
重臣の顔ではない。
ただの父の顔だった。
玉は胸の内で思う。
父上もここでは、織田の家臣よりも娘の父親なのだな。
こんな柔らかい表情をした父上を見るのは、初めての気がする。
信忠は光秀に向き直り、にこりとした。
「これから義理の父となる光秀殿には、親孝行せねばなりませぬな」
光秀は目を丸くしたが、すぐに笑った。
「……頼もしいことを言う」
玉も小さく頷き、笑みを添えた。
「私も……親孝行する」
三人の間に、和やかな空気が流れた。
婚姻を控えた緊張さえ、その一瞬だけは薄れていた。
その後、信忠と光秀は信長のもとへ通された。
広間。
信長は座したまま、二人を見下ろしていた。
帰蝶もまた控えている。
信忠が膝をつき、報告を始めた。
「父上。京でのこと、滞りなく済みました」
光秀も続ける。
「朝廷の空気は、以前より落ち着きを取り戻しております」
信長は頷くだけで、表情を変えない。
信忠は言葉を続けた。
「そして北」
「上杉謙信が退きました」
信長の目が細くなる。
「…うむ」
光秀が低く言う。
「病が深い様子にございます」
信忠は一拍置いて、問いを投げた。
「父上」
「包囲網の北が、弱まりました」
「ならば今後は、毛利に重点を置かれますか」
広間の空気が張り詰めた。
信長は少し黙り、やがて口を開いた。
「毛利は……逃げぬ」
その声は淡々としていた。
まるで、答えが最初から決まっているかのように。
「上杉は龍」
「龍は天に昇れば追えぬ」
「だが毛利は海に棲む」
信長は扇を軽く鳴らす。
「海を制した今」
「毛利は袋の鼠だ」
信忠が静かに息を呑んだ。
信長は続ける。
「北は勝家に守らせる」
「砦を固めよ」
「兵站を絶やすな」
「だが主は西」
信長の眼が鋭く光る。
「秀吉に兵を与える」
「両兵衛に任せる」
「毛利を削り、終わらせる」
光秀が問う。
「殿、上杉がもし息を吹き返し――」
信長は笑った。
「吹き返すなら、その時に斬る」
そして信長は言い切った。
「天下を決めるのは、毛利だ」
「西が終われば、もはや誰も旗を掲げられぬ」
信忠は深く頷いた。
「……承知しました」
信長は最後に、信忠を見た。
「信忠」
「婚姻が済めば」
「お前もまた、戦を担う」
信忠は迷いなく答えた。
「はい」
広間の空気は冷たかった。
だがそこには確かな安定があった。
戦国は終わりへ向かっている。
そう誰もが感じていた。
その夜、玉は城の廊下を歩きながら、遠くの灯を見つめた。
城下はまだ賑わっている。
笑い声が聞こえる。
だが玉は知っている。
この賑わいは、嵐の前の静けさかもしれぬ。
信忠が戻った。
父も戻った。
そして婚姻は、すぐそこにある。
玉は胸に手を当てた。
鼓動が速い。
それが恐れなのか、喜びなのか、分からない。
ただ一つだけ確かなのは――
この五日が、自分の人生を決めるということだった。
(信忠との婚姻まで――あと3日)




