第百三十九話「龍の遺言、花嫁の鼓動」
越後へ戻った謙信は、床に伏した。
何の病かは分からぬ。
医師は脈を取り、顔を曇らせるばかり。
薬を煎じても、祈祷をしても、回復の兆しはない。
ただ日々、謙信は衰弱していった。
咳は弱くなり、声は掠れ、目の光が細くなる。
それでも意識だけは冴えていた。
死が近いことを、謙信は悟っていた。
ある日、謙信は家臣たちを枕元に集めさせた。
直江兼続。
柿崎景家。
甘粕景持。
宇佐美定満。
皆が膝をつき、息を呑む。
謙信は天井を見つめたまま、静かに言った。
「……後継を、定める」
兼続の肩が震えた。
誰も言葉を発せぬ。
謙信は続ける。
「我が死を隠すな」
「隠せば、国が乱れる」
その声は弱い。
だが命令として揺るがなかった。
謙信はゆっくりと視線を動かし、家臣たちを見た。
「今後も民を優先せよ」
「民が飢えれば、武は滅ぶ」
「越後の発展と安寧を第一とせよ」
兼続は涙を堪え、深く頭を下げた。
「……ははっ」
謙信は最後に、静かに言った。
「それが、我が遺言だ」
その一言が、すべてだった。
越後の龍は、最期まで国を見ていた。
己の名ではなく、民の未来を残した。
家臣たちは声を出さずに泣いた。
嗚咽を飲み込み、ただ額を畳に押し付けた。
そして誰もが悟った。
殿の戦は終わった。
この国を守るための戦は、これから始まる。
その頃――岐阜城。
越後の龍が引いたことで、信忠は京から岐阜へ戻ることになった。
さらに明智光秀もまた、娘の婚姻を控え岐阜へ帰還する。
城下は、まるで祭りだった。
若様の婚姻。
それは織田家にとって、ただの祝い事ではない。
天下の安定そのものを示す出来事だった。
人が溢れた。
商人が集まり、屋台が並び、酒と甘味の香りが漂う。
太鼓の音が響き、笑い声が夜まで続く。
まだ婚姻まで五日もある。
それでも城下は、先に祝わねば気が済まぬとばかりに沸いていた。
岐阜の経済すら潤うほど、人と金が動いていた。
城内では、玉が帰蝶のもとで支度を学んでいた。
婚姻の衣装。
髪の結い方。
所作。
礼。
嫁としての振る舞い。
そして――夜のこと。
帰蝶は淡々と、しかし容赦なく教えた。
「夫婦となれば、避けては通れぬことがある」
「お前は逃げられぬ」
「恥ずかしがっても、務めは務めよ」
玉は頬を赤くし、視線を落とした。
「……はい」
声が小さく震えた。
帰蝶は微かに笑った。
「怖いか」
玉は首を振ろうとして、止めた。
嘘はつけない。
「……少し」
帰蝶は頷いた。
「それでよい」
「怖くない花嫁など、いない」
玉は息を吐いた。
胸が苦しいほど高鳴っている。
明日には信忠が帰ってくる。
そう思うだけで、心臓が跳ねる。
鼓動が速くなり、指先が冷たくなる。
玉はふと、父のことを思った。
この結婚が、父にも良い方向へ働けばよい。
明智の家が織田の中で安定し、光秀が苦しまぬ道へ進めばよい。
玉は胸の奥で、そっと願った。
そして窓の外を見た。
岐阜の城下は、灯が揺れている。
祝いの声が響き、笑いが夜を埋めていた。
戦国の世にあって、こんな夜があることが奇跡に思えた。
玉は静かに目を閉じた。
越後の龍が、去った。
そして自分は、花嫁になる。
歴史が動き、時代が動き、
自分の人生もまた動いていく。
(信忠との婚姻まで――あと五日)




