第百三十八話「龍、帰る」
加賀の陣は、凍りついたように静まり返っていた。
夜明け前、焚火の火が弱々しく揺れ、風だけが幕を揺らしていた。
謙信の幕の内から、兼続が飛び出した。
その顔色は、死人のように白い。
「殿が……!」
誰もが駆けた。
甘粕景持も、柿崎景家も、宇佐美定満も、言葉を失ったまま走った。
床に伏す謙信は、目を閉じていた。
呼吸は浅く、胸の動きがほとんど分からない。
「殿……殿……!」
兼続が呼ぶ。
だが返事はない。
沈黙の中で、家臣たちは悟った。
このままでは――死ぬ。
幕の外に集まり、軍議が始まった。
だがそれは軍議ではない。
葬儀の前の相談だった。
兼続は拳を握りしめ、声を絞り出す。
「……ここまで殿を追い詰めたのは、我らの責にございます」
甘粕が唇を噛んだ。
「加賀に留めた」
「寒さにさらした」
「殿の身体より、戦を優先した」
柿崎が低く呟く。
「越後へ戻らねば……戻らねば殿は……」
宇佐美は顔を伏せた。
「この地では回復は難しい」
「薬も医師も足りぬ」
「殿は、意地で立っておられた」
兼続は決断を迫られていた。
だが、決めるのは自分ではない。
謙信が生きている限り、謙信が決める。
その夜、家臣たちは眠れなかった。
焚火の前に座り、ただ時間が過ぎるのを待った。
そして夜が明けた。
幕の内から、弱々しい声がした。
「……水を」
兼続は飛び込んだ。
謙信の目が開いている。
焦点は定まらず、それでも確かに生きていた。
兼続の目に涙が滲む。
だが、謙信の前で泣くことは許されぬ。
そう思った瞬間、甘粕が膝をつき、声を震わせた。
「殿……どうか……!」
柿崎も宇佐美も、次々に頭を下げた。
「お願いにございます!」
「越後へお戻りくださいませ!」
「殿を失えば、上杉は終わります!」
声が詰まり、涙が落ちる。
誰もが泣いていた。
謙信は、しばらく天井を見つめていた。
その目は静かで、怒りも誇りもなかった。
そして小さく息を吐いた。
「……分かっておる」
咳が込み上げ、謙信は身を震わせた。
「……ゴホ……ゴホッ……!」
血の味を飲み込み、謙信は続ける。
「……我が身は、我がものではない」
「……上杉のものだ」
家臣たちは泣きながら頷いた。
謙信は目を閉じ、力なく言った。
「越後へ帰る」
その瞬間、家臣たちは深く頭を下げた。
まるで救われたかのように。
そして同時に悟った。
殿は帰る。
だが、帰った先で長くはない。
越後の龍は、最期の場所へ帰るのだ。
その頃――岐阜城。
柴田勝家から信長へ報告が入った。
「上杉の陣、慌ただしゅうございます」
「何やら撤収の支度に見えます」
信長は静かに頷いた。
「そうか」
勝家が続ける。
「殿、追撃を――」
信長は即座に遮った。
「追うな」
「ただし警戒は怠るな」
「退くと見せて、最後に噛みつくこともある」
勝家は深く頭を下げた。
「ははっ」
信長は地図を見つめた。
北の圧が弱まる。
それは事実だった。
だが信長は笑わなかった。
ただ冷たく、静かに考えていた。
上杉謙信という名が、戦国の重石であったことを。
その重石が崩れれば、天下の形は変わる。
玉は帰蝶の側でその報告を聞いた。
胸が沈む。
(謙信は……帰る)
(容態が悪化したのだ)
玉は分かっていた。
命の灯は、もう消えかかっている。
それはつまり、包囲網の片方が機能しなくなるということ。
京への圧力が弱まる。
歴史がまた一つ、変わる。
玉は静かに目を閉じた。
そして手を合わせた。
前世の記憶が、胸を刺す。
人の不幸を、喜んではならない。
それが敵であっても。
それが運命を変える鍵であっても。
玉は心の中で謙信に向けて祈った。
(上杉謙信)
(どうか安らかに)
そして小さく、誰にも聞こえぬ声で呟く。
「次は……戦いのない世に生まれてくださいね」
冬の風が、岐阜の庭を静かに吹き抜けた。
(信忠との婚姻まで後12日)




