第百三十七話「龍の臥所、嫡男の備え」
加賀の陣は、もはや冬そのものだった。
冷えは地を噛み、風は骨を削り、夜は深く長い。
その幕の奥で――上杉謙信は伏していた。
床に横たわりながら、なお目は冴えている。
だが息をするたび胸が軋み、喉の奥から血の味がした。
「……ゴホ……ッ……!」
咳は止まらない。
止めようとするほど、身体の奥から引きずり出されるように続く。
直江兼続が傍に膝をつく。
「殿……どうか、お休みを……」
謙信は枕元の手をわずかに上げた。
拒絶ではない。命令だった。
「……軍議を」
その声は掠れていた。
だが弱くはなかった。
幕が開かれ、家臣たちが集まる。
甘粕景持、柿崎景家、宇佐美定満。
そして直江兼続。
皆、殿の前では気丈に振る舞った。
表情は崩さぬ。声も震わせぬ。
謙信が生きている限り、上杉は崩れぬ。
それが家臣たちの矜持だった。
謙信は伏したまま、地図を示させる。
「……織田の荷を奪う」
「……奪った荷は、焼くな」
「……持ち帰れ」
兼続が頷く。
「承知」
謙信はゆっくり息を吐く。
「……勝家は砦を守る」
「……信長は待つ」
「……ならば、こちらは揺さぶる」
咳が漏れた。
「……ゴホ……ゴホッ……」
家臣たちは目を逸らした。
袖口の血を見ぬふりをした。
謙信は続ける。
「……兵は割くな」
「……少数で、確実に奪え」
「……動きを見せるな」
そして最後に呟いた。
「……この冬で決める」
その一言で、家臣たちは悟った。
殿は自分の命を知っている。
いや、知っているからこそ言える。
誰も口にしない。
誰も声を震わせない。
軍議が終わり、家臣たちは幕を出た。
その外で、皆が足を止めた。
雪のない冬の地面が冷たく湿っている。
風は、死者の吐息のようだった。
誰かが言葉を発することはなかった。
だが全員が、同じことを思っていた。
――殿は、もう長くない。
兼続は拳を握りしめた。
唇を噛み、血が滲むほどに耐える。
(殿にふさわしい最期を)
(越後の龍にふさわしい戦を)
それが家臣たちの祈りだった。
そして彼らは、殿の指示に従う。
最期まで、殿の戦を支える。
その頃――京。
信忠と光秀は、静かに向かい合っていた。
机の上には地図。
越前、加賀、近江、そして京へ至る街道。
信忠は玉の文を思い返しながら言った。
「謙信が寿命を悟っているなら」
「最後に賭けに出る可能性がある」
光秀は頷いた。
「はい。最後の一手は必ず来ます」
信忠はしばし沈黙し、そして決断を下した。
「光秀殿は京に残れ」
「京が乱れれば、すべてが崩れる」
光秀は即座に答えた。
「承知いたしました」
信忠は続ける。
「私は動く」
光秀の目がわずかに見開かれる。
「信忠様……京を離れられるのですか」
信忠は迷いなく頷いた。
「謙信が最後の賭けに出るなら」
「私が備えねばならぬ」
そして信忠は命じた。
「京の守りの中から、偵察部隊を編成する」
「加賀の陣の様子を探れ」
「謙信が動く兆しを、必ず掴め」
光秀は息を吐き、低く言った。
「……謙信が京を目指すなら、街道沿いに現れます」
信忠は頷いた。
「だから私は、街道沿いに出る」
それは信忠自身が囮になるという意味だった。
上杉が動けば、信忠が最初に受ける。
信忠は立ち上がり、窓の外を見た。
冬の京。
静かな都。
だがその静けさは嵐の前のものに思えた。
「野営する」
「いつでも動けるように」
光秀は拳を握った。
「危のうございます」
信忠は淡々と答える。
「嫡男が前に出ぬなら」
「誰が織田を守る」
その言葉に、光秀は何も言えなかった。
信忠は最後に言った。
「謙信が来るなら、私が受ける」
「来ぬなら、それもまた勝ちだ」
光秀は深く頭を下げた。
「……必ず、京を守ります」
こうして京は、二つに分かれた。
光秀は都に残り、
信忠は街道へ出て備える。
そして加賀では、龍が床に伏したまま戦を指揮していた。
謙信は動くのか。
それとも動かぬまま、織田を削るのか。
誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――
この冬が、決着の冬になるということ。
(信忠との婚姻まで――あと十七日)




