第百二十七話「帰蝶の一言(殿の決断、光秀の息継ぎ)」
岐阜城。
信長の居間には、いつもより人が少なかった。
それでも空気は張り詰めている。
書状が山のように積まれ、
火鉢の炭は赤く、しかし温もりは感じられない。
信長は文を開き、黙って目を走らせた。
京。
中国。
北陸。
播磨。
丹波。
勝っている。
だが勝っているからこそ、休めない。
天下が近づくほど、敵は増える。
領地が増えるほど、穴も増える。
信長は机を軽く指で叩いた。
(……忙しすぎる)
その時、襖が静かに開いた。
帰蝶であった。
信長は視線を上げる。
「どうした」
帰蝶は余計な言葉を挟まず、ただ静かに座った。
その眼差しだけで、信長は察する。
「玉か」
帰蝶は頷いた。
「玉が申しておりました」
信長は一瞬、口元を緩めた。
だがすぐに目が鋭くなる。
「何を考えついた」
帰蝶は淡々と言った。
「光秀が疲れております」
信長は鼻で笑うでもなく、黙った。
帰蝶は続ける。
「京は静かになりました。信忠が立ちました」
「しかし、それでも京は光秀に寄りかかります」
「光秀が倒れれば、京は乱れます」
「京が乱れれば、殿の天下が遅れます」
帰蝶は一つずつ、確実に言葉を落とした。
情ではない。
損得の話だ。
信長はゆっくりと息を吐いた。
「……それは分かっておる」
帰蝶はさらに言う。
「玉が申したのは、もっと単純です」
信長が目を細める。
帰蝶は言った。
「光秀は、耐える者です」
「耐える者ほど、折れる時は一気です」
信長の指が止まった。
帰蝶は最後に言った。
「殿の天下のために、光秀に息継ぎを与えてください」
信長はしばらく黙った。
火鉢の炭が、ぱちりと鳴った。
信長は視線を落とし、文の束を見た。
(京を任せたのは、光秀)
(朝廷を繋いでいるのも、光秀)
(そして丹波を平らげたのも……)
信長の中で、一つの結論が固まる。
「……よし」
信長は顔を上げた。
「光秀を休ませる」
帰蝶の目が僅かに動く。
信長は続けた。
「だが京を空けるわけにはいかぬ」
「京の務めを分ける」
「信忠にさらに負わせる」
「そして、光秀の代わりに補佐を付ける」
帰蝶は静かに頷いた。
信長は声を強めた。
「堀秀政を京へ回す」
「政務を分け、報告を一本化する」
「光秀の肩にすべてを乗せるな」
信長は言い切った。
帰蝶は少しだけ目を伏せた。
(玉の言葉が届いた)
それを悟った。
信長は帰蝶を見た。
「玉は……まだ何か言っておったか」
帰蝶は一瞬迷ったが、答える。
「婚姻まで二ヶ月だと」
信長は短く頷いた。
「……そうか」
信長の胸に、別の計算が浮かぶ。
玉が織田へ入る。
それは信忠の正室というだけではない。
織田の中枢に、知恵が入る。
信長は目を細めた。
(あれは、ただの姫ではない)
(国を動かす器だ)
信長は立ち上がり、近習に命じた。
「使者を出せ」
「京の光秀へ、直々の命を伝えよ」
近習が頭を下げ、走り去る。
信長は帰蝶に言った。
「玉に伝えよ」
「余計な心配をするな、と」
帰蝶は小さく笑った。
「殿、それは無理です」
信長はふっと息を吐いた。
「……ならば」
「考え続けよ、と伝えよ」
帰蝶は静かに頷いた。
京。
明智光秀の宿所。
灯明の下、光秀は書状に目を通していた。
そこに使者が駆け込む。
「光秀様!岐阜より急使!」
光秀は顔を上げた。
封を切り、目を通す。
その瞬間、光秀の表情が僅かに崩れた。
『光秀、京の務めを分ける。
堀秀政を補佐に付ける。
信忠を前に立てよ。
そなたは丹波の整備に注力せよ。
無理をするな。』
光秀は文を握りしめた。
無理をするな。
信長が、そんな言葉を書くのか。
光秀の喉が熱くなる。
(……殿)
(殿が、私の疲れを見ておられた)
いや、違う。
(帰蝶様か)
そして――。
光秀の脳裏に浮かぶ。
玉。
あの娘が、動いたのだ。
光秀は思わず笑いそうになった。
(私は、娘に守られているのか)
情けないと思うより先に、
胸が温かくなった。
光秀は深く息を吐く。
初めて、肺に空気が入った気がした。
だが同時に、光秀は理解していた。
これは休めという意味ではない。
「京を守り続けろ」
そのために、倒れるな。
信長の命はそういう形であった。
光秀は文を机に置き、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
その声には、迷いがなかった。
岐阜城。
帰蝶の部屋。
玉は襖の外で、帰蝶が戻るのを待っていた。
胸が落ち着かない。
静かに襖が開く。
帰蝶が入ってくる。
玉は思わず顔を上げた。
帰蝶は淡々と言った。
「殿は動いた」
玉の息が止まった。
帰蝶は続ける。
「堀秀政を京へ回す」
「信忠様を前に立てる」
「光秀の務めを分ける」
玉の肩から、力が抜けた。
「……よかった」
声が震えた。
帰蝶は玉を見つめ、言う。
「玉」
「お前は、言葉で国を動かした」
玉は顔を伏せた。
「私は……ただ」
帰蝶は遮る。
「ただではない」
「お前は今、織田の中に根を張った」
玉の胸がざわつく。
帰蝶は言った。
「婚姻まで二ヶ月」
「その二ヶ月で、お前はさらに多くを背負う」
玉は静かに頷いた。
「……はい」
帰蝶は微笑んだ。
「ならば学びなさい」
「京を学べ」
「公家を学べ」
「そして――殿を学べ」
玉は拳を握った。
(父上は、救われた)
だがこれは始まりに過ぎない。
包囲網はまだ燃えている。
上杉はまだ動く。
毛利はまだ折れぬ。
そして、京はまだ静かに刃を研いでいる。
玉は顔を上げた。
「帰蝶様」
「次は、何が来ますか」
帰蝶は目を細めた。
「次は……」
「“京の裏”が動く」
玉の背筋が冷えた。
帰蝶は静かに言った。
「公家は、必ず誰かを利用する」
「織田を止めるために」
玉は理解した。
次の敵は戦場ではない。
京の中だ。
玉は心の中で呟いた。
(二ヶ月)
(二ヶ月で、すべての火種を消す)
十五の花嫁は、政の戦場へ足を踏み入れていく。
静かに。
確実に。
その時、城の外で風が鳴った。
まるで京の闇が、次の策を囁いているように。




