第百二十八話「花嫁になる前の最後の戦い」
岐阜城。
朝の空気は冷たく、庭の砂の上には霜が薄く張っていた。
玉はその白さを見つめながら、指先を握りしめた。
婚姻まで二ヶ月。
その言葉が、頭から離れない。
帰蝶のもとで学んだ十ヶ月。
ようやく掴みかけた政の呼吸。
だが――まだ足りない。
今はまだ「学びの身」。
だが二ヶ月後には、学びでは済まぬ。
織田の正室として、政の渦の中に立つ。
玉は思う。
(今が……最後だ)
(嫁ぐ前に、私が動ける最後の時間)
襖が開き、近習が静かに告げた。
「玉様。信忠様より文にございます」
玉の胸が跳ねる。
受け取った文は、薄い紙なのに重く感じた。
封を切り、目を走らせる。
そこには、京での会談の様子が簡潔に記されていた。
御前での宣言。
五摂家の沈黙。
主上の言葉。
そして最後に、信忠の言葉が添えられていた。
『岐阜へ戻る支度を進める。
父上(殿)の御前にも出ねばならぬ。
京の務めは光秀殿に任せることとなるであろう』
玉の呼吸が止まった。
(戻る……?)
心臓が一つ強く鳴る。
京が落ち着いたのは、信忠が京にいたからだ。
信忠が京にいる間、公家は「織田の嫡男」という壁を越えられない。
だが信忠が去れば――。
(父上に……全部戻る)
光秀にすべてが集中する。
京の矢面は、また父になる。
玉の中で、冷たいものが背を走った。
帰蝶の声が脳裏に響く。
「京は剣で勝てぬ場所」
玉は立ち上がった。
迷っている暇はない。
帰蝶の部屋。
玉は一礼し、正座した。
帰蝶は茶を点てていたが、玉の顔を見るなり察したように目を細めた。
「信忠の文ね」
玉は頷いた。
「京から戻られると……」
帰蝶は静かに茶を置く。
「戻れば、京はまた光秀に寄りかかる」
玉は唇を噛んだ。
「……はい」
玉は息を整え、言葉を絞り出す。
「帰蝶様。お願いがございます」
帰蝶は黙って玉を見た。
玉は言った。
「信忠様を、京に留めるべきです」
帰蝶の目が僅かに鋭くなる。
玉は続けた。
「信忠様が京におられる間は、公家は強く出られませぬ」
「五摂家は、信忠様を前にしては“表の顔”を保つしかない」
「ですが信忠様が離れた瞬間……京は必ず裏で動きます」
玉の声は静かだったが、揺れなかった。
「その時、父上に圧力が集中します」
帰蝶は小さく頷いた。
「光秀は、また削られる」
玉は言った。
「はい」
そして玉は、少しだけ目を伏せた。
「父上は……耐えます」
「耐えてしまいます」
帰蝶は何も言わない。
玉は顔を上げた。
「だからこそ、信忠様を京に置くのです」
「京に“織田の嫡男”がいるだけで、空気が変わります」
「公家は、信忠様の存在を無視できません」
帰蝶は静かに息を吐いた。
「……お前は、よく分かっている」
玉は深く頭を下げた。
「私は、信忠様にお願いするつもりです」
帰蝶は目を細めた。
「恋の願いではないわね」
玉は少しだけ笑った。
「はい。政の願いです」
帰蝶は茶を一口飲み、言った。
「ならば、その願いは強い」
玉は胸の奥で確信する。
(これは、花嫁になる前の最後の戦い)
戦場ではない。
だが命を削る戦いだ。
その夜。
玉は筆を取った。
宛先は、京の信忠。
紙の上に墨が落ちる音が、やけに大きく響く。
『信忠様。
京を離れられると聞き、胸がざわつきました。
京は表では静かですが、静かなほど裏が動きます。
信忠様が京におられる間、公家は“御前の宣言”を盾にできます。
ですが信忠様が離れれば、光秀殿が矢面に立ちます。
お願いがございます。
どうか、もうしばらく京にお留まりください。
父上を守るためではありません。
京を守るためです。
そして、織田を守るためです。』
玉は筆を止めた。
最後に、一行だけ添える。
『婚姻まで二ヶ月。
私は岐阜で待ちます。
ですが、その二ヶ月を、ただ待つことはできませぬ。』
玉は文を畳み、封をした。
(届いて……)
(届いてほしい)
願いは政。
だが胸の奥にあるものは、確かに別の温度を持っていた。
京。
五摂家の屋敷。
灯は落とされ、部屋は薄暗い。
畳の上には香が焚かれ、静寂の中に衣擦れの音だけが漂う。
公家たちの声は低く、鋭い。
「信忠が前に出た以上、正面からは動けぬ」
「御前で忠誠を誓った以上、こちらが“朝敵”にされかねぬ」
「だが、織田が荘園を握れば、我らの財は尽きる」
「尽きれば、朝廷は形だけになる」
誰かが言った。
「……ならば、動かすべきは外だ」
別の声が続く。
「武を持つ者に、朝廷の危機を知らせよ」
沈黙。
そして、ゆっくりと名が落ちた。
「越後の龍」
その場の空気が、冷たく固まる。
「上杉謙信」
五摂家の一人が、静かに言った。
「謙信は義を重んじる。
朝廷が危ういと聞けば、動かぬはずがない」
「織田の天下を止めるには、謙信しかおらぬ」
誰も反論できなかった。
筆が取られる。
紙が広げられる。
連名。
五摂家の名が、一つずつ墨で刻まれていく。
「急ぎ、越後へ」
その言葉と共に、文は封じられた。
京の闇が、再び動き出した瞬間だった。
越後。
春日山城。
雪は深く、風は鋭い。
だが城内は静かで、火鉢の炭だけが赤く燃えていた。
上杉謙信は、座していた。
甲冑ではない。
だが背筋は戦場のそれだった。
そこへ家臣が進み出る。
「殿。京より急使にございます」
謙信は目を上げる。
「……京か」
受け取った文。
封を切る。
五摂家連名。
謙信の眉が、僅かに動いた。
(またか)
謙信の胸に、怒りが走る。
(公家はいつもそうだ)
(己の地位を守るために、武を呼ぶ)
(血を流すのは誰だ)
謙信は文を読み進める。
『織田は朝廷を支配せんとし、
荘園を掌握し、
公家の財を奪わんとしている。
このままでは主上の御威光は失われ、
朝廷は形骸となる。
義の軍をもって、これを正し給え――』
謙信の手が止まった。
怒りと、別の感情が混じる。
(……主上の権威が揺らぐ、か)
謙信は知っていた。
京で信忠が動いたことは、噂として聞いている。
織田の嫡男が御前に出た。
忠誠を誓った。
公家は沈黙したらしい。
だが、謙信はその“空気”を知らない。
どんな声だったのか。
どんな表情だったのか。
五摂家が本当に屈したのか。
それとも、屈したふりなのか。
だからこそ、この書状は重い。
(屈したのなら、なぜ今こうして泣きつく)
謙信は目を閉じた。
胸の奥で、結論が固まっていく。
(公家の頼みではない)
(これは……朝廷を守るための戦だ)
謙信はゆっくりと目を開いた。
「兼続」
直江兼続が前へ出る。
「はっ」
謙信は文を畳み、静かに言った。
「兵を整えよ」
兼続の目が揺れた。
「再び……出陣にございますか」
謙信は短く頷く。
「ただし、急ぐな」
「前のように雪に縛られてはならぬ」
謙信の声が低く響く。
「公家に使われるためではない」
「主上の御威光を守るためだ」
兼続は深く頭を下げた。
「承知」
謙信は火鉢の赤を見つめた。
(信長……)
(お前は、どこまで行く)
義と天下。
二つの道が、再び交わろうとしている。
岐阜城。
玉はまだ知らない。
京の闇が越後へ文を送ったことも。
越後の龍が再び動き出したことも。
だが、胸の奥がざわついていた。
理由は分からない。
ただ、確かに空気が変わった。
玉は手を握りしめた。
(信忠様……京にいてください)
(京を、父上を、織田を守るために)
花嫁になる前の最後の戦いが、始まった。
静かに。
だが確実に。




