第百二十六話「政の花嫁(十五の決意)」
岐阜城。
冬の空気が城を包み、廊下を歩けば板の冷たさが足裏に染みた。
雪はまだ積もらぬ。だが気配は確かに近づいている。
城は静かだった。
しかし静けさは平穏ではない。
京からの報せ。
北からの噂。
西国の戦況。
すべてが一つの糸で繋がり、織田の周囲を締めつける輪のように迫っている。
帰蝶の部屋だけが、別世界のようだった。
香が焚かれ、茶が湯気を立てている。
障子の向こうから聞こえるのは、遠い足音だけ。
玉は正座し、茶碗を両手で包んだ。
温かいはずの茶が、どこか冷たく感じた。
帰蝶は静かに茶を飲み、淡々と口を開いた。
「信忠は、見事にやったわね」
玉は小さく頷いた。
「はい……」
京の御前での宣言。
五摂家の沈黙。
主上の裁可。
光秀一人では届かなかった場所へ、信忠が踏み込んだ。
玉は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
だが同時に、それ以上に重いものが押し寄せていた。
帰蝶が続ける。
「京が落ち着いた、と思うのは早い」
玉の指先が僅かに強張った。
帰蝶は穏やかな声で言う。
「公家は折れたのではない。
折れたふりをするのが、あの者たちの戦い方よ」
玉は頷いた。
「……はい」
玉の頭には、父の背中が浮かんだ。
光秀は耐える。
耐え続ける。
そして耐えすぎた者が、最後に折れることを玉は知っている。
玉は茶碗を置き、ゆっくりと顔を上げた。
「帰蝶様」
帰蝶が視線を向ける。
玉は言葉を選びながら、だがはっきり言った。
「父上は……京で消耗しております」
帰蝶は表情を変えない。
玉は続ける。
「信忠様が京へ入られたことで、確かに状況は変わりました。
ですが――それでも京は、父上に寄りかかります。
京は、光秀を“使い慣れた者”として手放しませぬ」
帰蝶の目が、僅かに細くなる。
玉は言った。
「京の交渉は、戦よりも神経を削ります。
一日で兵を失わずとも、心が削られていきます。
父上が倒れれば、京の政は乱れます。
京が乱れれば、殿の天下は遅れます」
それは情ではない。
実利の言葉だった。
帰蝶は茶を置き、玉を見つめる。
「……お前は、よく分かっている」
玉は小さく頭を下げた。
「父上を守りたいと思う気持ちはございます。
ですが、それ以上に――」
玉は息を吸う。
「父上が倒れれば、殿に損が出ます」
帰蝶は一瞬だけ沈黙した。
玉は続けた。
「父上は京の要です。
要が折れれば、屋根が落ちます。
ですから父上を守ることは、織田のためでもございます」
帰蝶は静かに頷いた。
「なるほど」
玉は言った。
「殿にお願いしたいのは、ただ一つ。
父上に背負わせるものを減らしていただきたいのです。
信忠様が京に立たれたように、
父上の周りにも支える者を置いていただきたい」
帰蝶は目を伏せ、しばらく考えた。
そして、ふっと息を吐いた。
「玉。
それは正しい」
玉の胸が熱くなる。
帰蝶は立ち上がった。
「殿に伝えるわ」
玉は思わず言った。
「帰蝶様……」
帰蝶は振り返る。
玉は言葉を絞り出した。
「婚姻まで、二ヶ月でございます」
帰蝶の目が、僅かに揺れた。
玉は続けた。
「私は、学びの途中です。
ですが、時間がありません。
父上が折れる前に、京を固めねばなりませぬ」
帰蝶は静かに頷いた。
「……焦りなさい」
玉が目を見開く。
帰蝶は淡々と言った。
「焦りは、愚かさではない。
期限がある者の力よ」
そして帰蝶は、玉の頭上に影を落とすように言った。
「お前は、もう子ではない。
十五とは、花嫁の年齢ではなく、国の器を試される年齢」
玉は息を呑んだ。
帰蝶は襖へ向かいながら言った。
「殿は情で動かぬ。
だが損得で動く。
お前の言葉は刺さる」
そう言い残し、帰蝶は部屋を出た。
玉は一人、残された。
湯気の薄れた茶。
静かな香。
そして、外の冷たい風の音。
玉は膝の上で手を握りしめた。
十五。
婚姻まで二ヶ月。
その二ヶ月が過ぎれば、玉は織田へ入る。
立場が変わる。
自由が減る。
だからこそ、今やれることをやらねばならない。
玉は小さく呟いた。
「……私は、政の花嫁になる」
その瞬間、襖の外から声がした。
「玉様。
信忠様より文が届いております」
玉の胸が跳ねた。
京からの文。
玉は立ち上がり、襖を開ける。
受け取った文は、まだ温かい。
玉はそれを胸に抱え、目を閉じた。
安堵と不安が同時に押し寄せる。
信忠が京にいる。
光秀も京にいる。
京は一旦落ち着いた。
だが、京は静かなだけで終わらない。
必ず次の波が来る。
玉は文を握りしめた。
(二ヶ月)
(二ヶ月で、火種を消す)
玉は決意した。
嫁ぐためにではない。
守るために。
京の闇に呑まれぬために。
静かな部屋の中で、玉の決意だけが燃えていた。




