第百十八話「鉄の海路(大船、兵站を載せる)」
港は冷たい潮風に包まれていた。
だがその空気を裂くように、巨大な影が水面に浮かんでいる。
大船。
いや、海に浮かぶ城であった。
舷側は高く、船腹は分厚い。
鉄で覆われた板が鈍く光り、近づくだけで圧を感じる。
その船の前に、信長が立っていた。
隣には帰蝶。
そして玉。
護衛の兵を伴い、三人は港へと足を運んでいた。
信長は船体を見上げる。
「……よう出来た」
帰蝶は小さく頷く。
「これなら毛利の海でも簡単には沈みませぬ」
玉は息を呑んでいた。
(本当に……出来た)
この船が実用になれば、戦の形が変わる。
毛利の水軍に対し、恐れるものが一つ減る。
秀吉の兵站が安定する。
それだけで西国の戦は、加速する。
信長が港へ向けて命じた。
「積め」
その一言で、荷役が一斉に動き出した。
大八車が並び、俵が運び込まれる。
米、味噌、塩、干物。
火薬。
種子島の弾薬。
焙烙玉。
陶器を詰めた特製の崩落玉。
そして、それを船へ上げるための仕組み。
船の四方に取り付けられた滑車。
縄が引かれ、木枠がきしみ、荷が宙を舞う。
「おお……!」
港の者たちが思わず声を漏らす。
人が数人で縄を引くだけで、重い荷がゆっくりと持ち上がり、船へ吸い込まれるように運ばれていく。
信長はそれを見て、目を細めた。
「……人が少なくて済む」
「積み込みが早い」
鍛冶職人と船大工が頭を下げる。
「殿、滑車を重ねてございます」
「力を分け、少ない人数でも引けるように」
信長は満足げに鼻で笑った。
「使える」
帰蝶は横目で玉を見た。
玉は小さく息を吐く。
(これで、秀吉殿が……)
玉は港の騒がしさの中で、心の中だけは静かだった。
信長は帰蝶へ言う。
「秀吉には書状で伝えてある」
「この船が着けば、兵糧の心配は減る」
帰蝶は頷く。
「戦が変わりますな」
信長は冷たく笑う。
「変えるのだ」
出航の日。
港には人が集まっていた。
大船がゆっくりと岸を離れる。
帆が上がる。
櫂が動く。
波が割れる。
その巨体が動き出す光景は、まるで巨大な獣が海へ解き放たれるようだった。
信長は最後まで船を見ていた。
帰蝶は静かに手を袖に収める。
玉は胸の前で指を握り締めた。
(うまく行ってほしい)
ただそれだけだった。
この船が沈めば、笑うのは毛利。
織田の兵站は絶たれる。
秀吉は進めなくなる。
玉は心の奥で祈る。
(どうか、無事に)
そして思う。
(この一艘で、何日分の物資が運べるのだろう)
陸路なら何十、何百という荷駄が必要になる量。
それを海路で一気に運べれば、戦の時間が変わる。
攻める速度が変わる。
守る側の絶望が変わる。
玉は期待せずにはいられなかった。
港の空に、冷たい風が吹く。
大船は波を割りながら遠ざかり、やがて水平線へ溶けていった。
信長は小さく呟く。
「毛利よ」
「海もまた、織田の道となる」
玉はその背を見つめた。
この瞬間、織田の戦は陸だけではなく、海へと伸び始めていた。




