第百十七話「捲土重来(越後の龍、再び牙を研ぐ)」
越後。
雪は深く、空は鉛色だった。
だがその寒さの中でも、春を待つように静かに燃えているものがある。
上杉謙信の戦意であった。
前回。
加賀に陣を敷き、織田の北を縛る。
それは謙信にとって正しい判断だった。
だが結果は撤退。
刃を交えることなく退いた。
敗北ではない。
しかし謙信は理解していた。
あのまま長く居座れば、先に痩せるのは上杉である。
民を飢えさせることはできない。
義の旗を掲げる者として、それだけは許されぬ。
謙信は民を思い、兵を守り、退いた。
だが織田は止まらなかった。
撤退したその間にも、織田は動き続けている。
北は守られ、京は締められ、秀吉は西へ進んでいる。
加賀で足止めするという構造自体が、崩れかけていた。
謙信は座して黙っていられぬ。
春日山城。
謙信は広間に座し、軍議を開いた。
集まる家臣。
その中に直江兼続が控える。
謙信は静かに言った。
「次は、退かぬ」
その声に家臣たちの背筋が伸びた。
兼続が口を開く。
「殿、前回は雪と寒さ、そして兵糧の不足が……」
謙信は頷いた。
「分かっている」
「民を飢えさせるわけにはいかぬ。だから退いた」
謙信はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見る。
白い山。
越後の冬は、いつも厳しい。
「だが織田は冬でも兵を動かした」
「どうやって物資を運んでいるのか、俺にはまだ見えぬ」
その言葉に家臣たちは沈黙する。
織田の兵站。
それは武より恐ろしい。
兼続が静かに言った。
「殿、織田は物量で押しております」
「道を整え、工兵を動かし、荷を絶やさぬ」
「そして守りに徹する柴田は、動かぬことで我らを削りました」
謙信は目を細めた。
「……動かぬ戦で、こちらが削られたか」
兼続は頷く。
「はい」
「上杉は強い。ですが長く居座れば兵糧が尽きます」
謙信は低く呟いた。
「ならば、次は尽きぬようにする」
謙信は振り返り、兼続を見た。
「兼続」
「次は長く滞在する」
兼続の顔が引き締まる。
「御意」
謙信は続けた。
「加賀に陣を張るだけでは足りぬ」
「兵糧を備えよ」
「荷駄を増やせ」
「道を調べ、宿を押さえよ」
「そして――」
謙信の声が冷たくなる。
「一戦交える備えもしておけ」
家臣たちの空気が変わった。
前回は根比べ。
だが次は違う。
兼続が問う。
「殿、柴田が出てくれば戦になります」
謙信は短く答えた。
「構わぬ」
「俺は退いたのではない」
「次のために退いたのだ」
その言葉は軍議の空気を燃やした。
兼続は進み出る。
「殿。もし次、織田がまた動かぬなら」
謙信は目を細める。
「その時は、こちらから崩す」
「兵站を断つ」
「道を焼く」
「荷駄を奪う」
謙信の声は淡々としていた。
義の人と呼ばれる謙信が、冷酷な策を口にする。
それは矛盾ではない。
義を守るためにこそ、勝たねばならぬ。
謙信は言った。
「民を守るためには戦を終わらせねばならぬ」
「終わらせるためには織田を止めねばならぬ」
その理屈に家臣たちは頷いた。
軍議が終わる。
兼続は廊下を歩きながら胸の内で思う。
(殿は、怒っておられる)
(だが怒りではない)
(義のための執念だ)
謙信は越後の龍。
一度退いたからこそ、次はより鋭くなる。
謙信は一人、甲冑を見つめていた。
前回は雪に阻まれた。
兵糧に苦しんだ。
だが次は違う。
捲土重来。
その言葉が謙信の中で燃えていた。
「信長」
「次は、お前の北を崩す」
静かな声。
だがそれは、越後の龍が牙を研ぐ音そのものだった。




