第百十三話「京の対話(信忠と光秀)」
京。
冬の都は静かだった。
だが、その静けさの裏では、無数の思惑が渦巻いている。
朝廷。
五摂家。
寺社。
織田。
その中心に立たされ続けているのが、明智光秀だった。
信忠の一行が京へ入ったのは、雪の舞う夕刻であった。
織田嫡男の到着。
その報はすぐに広がる。
「信忠様自ら京へ」
「ついに嫡男まで政へ関わるのか」
公家たちはざわめいた。
それは単なる視察ではない。
織田が“京を軽視していない”という明確な意思表示でもあった。
明智屋敷。
光秀は信忠を迎えた。
「ようお越しくださいました」
信忠は頷く。
「光秀殿」
二人は向かい合って座る。
香が焚かれ、静かな空気が流れる。
だが互いに分かっていた。
これは挨拶ではない。
政の話だ。
信忠は懐から二通の文を取り出した。
「玉からです」
光秀の目が少し和らぐ。
「玉から……」
信忠は一通を差し出す。
「こちらは光秀殿宛」
もう一通を机へ置いた。
「そして、こちらは私宛です」
光秀は玉の文を静かに開く。
読み進めるうちに、表情が変わっていく。
朝廷の面子。
人事権。
荘園管理。
融和。
“名誉は朝廷に、実務は織田に”
光秀は読み終え、しばらく黙った。
やがて深く息を吐く。
「……そこまで見えておりますか」
信忠は静かに言った。
「私も驚きました」
光秀は苦笑する。
「戦だけではない」
「京そのものを見ておりますな」
信忠は続けた。
「玉は、公家が恐れているのは“権威を奪われること”だと言っていました」
「だからこそ、人事権には触れぬべきだと」
光秀は頷く。
「正しい」
「公家にとって官位は命に等しい」
「そこを奪えば、必ず敵になります」
信忠はさらに言う。
「ですが荘園管理の実務は織田が握るべきだとも」
光秀は目を閉じた。
「……理にかなっております」
「朝廷に面子を残しつつ、実利を織田が持つ」
「最も摩擦が少ない」
信忠はそこで玉の言葉を思い出す。
“織田は侵略者と思われてはなりません”
信忠は静かに口にした。
「玉は、“織田が朝廷を滅ぼすと思われること”を恐れていました」
光秀はゆっくり目を開いた。
「当然です」
「今の京は、それを恐れております」
「殿が強すぎるが故に」
その言葉に、部屋が静かになる。
やがて光秀は信忠を見た。
「信忠様」
「京へ来られた意味、お分かりですか」
信忠は真っ直ぐ答える。
「光秀殿を支えるため」
光秀は少し笑った。
「それもございます」
「ですがもう一つ」
「京に、“織田は武だけではない”と見せるためです」
信忠は黙って聞く。
光秀は続けた。
「殿ご自身が来れば、公家は怯えます」
「ですが嫡男である信忠様が、礼を尽くし、融和を語れば空気は変わる」
「それは武力より強い」
信忠はそこで理解した。
自分はただの補佐ではない。
“織田の未来の顔”として京へ来たのだ。
その夜。
二人の話し合いは長く続いた。
寺社勢力。
五摂家。
朝廷財政。
地方統治。
そして――信長。
光秀は静かに言った。
「殿は天下を動かしております」
「ですが速すぎる」
「周囲が追いつけておりませぬ」
信忠は目を伏せた。
それは信忠自身も感じ始めていた。
だからこそ、自分が来た。
光秀一人に抱えさせれば、いつか限界が来る。
話し合いが終わる頃。
外は雪になっていた。
信忠は立ち上がる。
「光秀殿」
光秀も立つ。
「はい」
信忠は静かに言った。
「これからは、一人で抱え込まないでください」
その言葉に、光秀は少し驚いた顔をした。
やがて小さく笑う。
「……はい」
その返事は短かった。
だがそこには、確かな安堵があった。
信忠が去った後。
光秀は一人、玉の文を見つめていた。
静かな筆跡。
だがその中には、政そのものを動かそうとする意志がある。
光秀は小さく呟いた。
「玉……お前はどこまで見えている」
窓の外では雪が降り続けていた。
京の冬は深い。
だが今。
その冷たい都に、少しだけ変化が生まれ始めていた。




