第百九話「分け持つ者(信忠、初めて政を背負う)」
岐阜城。
冬の朝は遅い。
薄暗い空の下、玉は文机に向かっていた。
京から届いた書状を何度も読み返す。
光秀の筆跡。
乱れてはいない。
いつも通り整っている。
だからこそ、玉は不安だった。
(父上は無理をしている)
乱れぬように書く。
弱みを見せぬように振る舞う。
それが明智光秀という男だった。
だが人は、限界を超えれば壊れる。
玉は静かに息を吐いた。
そこへ信忠が現れる。
「まだ起きていたのか」
玉は慌てて立ち上がる。
「信忠様」
信忠は机の文を見た。
「光秀殿のことを考えていたな」
玉は少し迷い、頷いた。
「……はい」
信忠は玉の向かいに座った。
しばらく沈黙。
やがて信忠が口を開く。
「父上も分かってはいる」
「だが、任せられる者が光秀殿しかおらぬ」
玉は静かに答えた。
「それが一番危ういのです」
信忠は目を細めた。
玉は続ける。
「一人に集まりすぎれば、いつか綻びます」
「どれほど優れた人でも、疲弊はします」
その言葉に、信忠は黙り込んだ。
玉の言葉は、ただの心配ではない。
政を見ている。
織田の形そのものを見ている。
信忠は低く言った。
「……ならば、俺が分け持つ」
玉が顔を上げる。
信忠は真っ直ぐ前を見ていた。
「父上と光秀殿だけに背負わせるから歪む」
「なら、俺も持たねばならぬ」
玉の胸がわずかに熱くなる。
この人は、変わり始めている。
ただの嫡男ではない。
織田を支える者になろうとしている。
その日の評定。
信長の前に、信忠が進み出た。
「父上」
信長が見る。
「なんだ」
信忠は一切迷わず言った。
「京の政務、一部を私にお任せください」
評定の空気が変わる。
家臣たちが顔を見合わせた。
信長は表情を変えない。
「理由は」
信忠は答える。
「光秀殿への負担が大きすぎます」
「このままでは、京の政が一人に集中します」
信長の目が僅かに細くなる。
「……誰の考えだ」
信忠は正面から答えた。
「玉です」
一瞬、沈黙。
そして信長は笑った。
「はは……」
「やはりあれは、よく見ている」
だが次の瞬間、信長の目が鋭くなる。
「信忠」
「政は戦より重いぞ」
「人を斬れば終わりではない。
抱え、調整し、飲み込み続けねばならぬ」
信忠は頷いた。
「承知しております」
信長はさらに問う。
「逃げるなよ」
「一度持てば、最後まで責を負う」
信忠は真っ直ぐ答えた。
「織田を継ぐなら、避けては通れませぬ」
その言葉に、家臣たちの空気が変わった。
嫡男としてではない。
一人の武将として、信忠が立った。
信長はしばらく信忠を見つめていた。
やがて口を開く。
「よい」
「一部を任せる」
「寺社との折衝補佐、京への返書、各地報告の整理」
「まずはそこからだ」
信忠が頭を下げる。
「ははっ」
信長は最後に言った。
「光秀を支えろ」
「だが甘やかすな」
「働ける者には働いてもらう」
家臣たちが苦笑する。
確かに信長らしい。
評定後。
信忠は廊下を歩いていた。
そこで帰蝶に呼び止められる。
「信忠」
「はい、母上」
帰蝶は静かに微笑んだ。
「良い顔になった」
信忠は少し驚く。
帰蝶は続けた。
「玉の影響だな」
信忠は否定しなかった。
「……玉は、よく見ています」
「戦だけではなく、人の疲れまで」
帰蝶は頷いた。
「あれは殿とも違う。
光秀とも違う」
「人が壊れる前に気づこうとする」
帰蝶は信忠を見た。
「だからこそ、お前が支えろ」
信忠は深く頷いた。
「はい」
その夜。
玉は信忠から評定の話を聞いていた。
信忠が政務を分け持つ。
光秀の負担を減らす。
玉は胸を撫で下ろす。
ほんの少し。
本当に少しだけだが、未来がズレた気がした。
玉は小さく言う。
「ありがとうございます」
信忠は首を振った。
「礼を言うな」
「俺も織田を支える者だ」
玉はその言葉に微笑んだ。
戦国の婚姻に、最初から恋はない。
だが。
共に背負ううちに、
自然と相手を思いやる。
その感情は、確かに育ち始めていた。
一方、京。
光秀は新たに届いた書状を見ていた。
信忠より。
“政務の一部を引き受ける”
その文を見た光秀は、しばらく黙っていた。
やがて小さく笑う。
「……成長されましたな」
その言葉には安堵があった。
だが同時に、別の感情もあった。
(信忠様まで政を背負い始めた)
(織田は、さらに大きくなる)
光秀は静かに目を閉じた。
京の重圧は、まだ終わらない。
だが今、確かに。
それを分け持とうとする者が現れ始めていた。




