第百十話「中国の火蓋(秀吉、毛利と対峙す)」
西国。
中国路は、北陸とは違う重い空気に包まれていた。
山。
川。
湿った道。
そして無数の城。
毛利の支配する中国地方は、一つの大国だった。
織田が勢いを増してなお、簡単には呑み込めぬ巨大勢力。
その最前線に立っていたのが――羽柴秀吉である。
播磨。
羽柴陣。
秀吉は地図を前に腕を組んでいた。
黒田官兵衛が静かに口を開く。
「毛利は正面決戦を避けております」
秀吉は鼻で笑う。
「そりゃそうじゃ」
「毛利は賢い。
城と川を使って削る気じゃろう」
官兵衛は頷いた。
「はい。
さらに西は補給が長くなります」
秀吉の顔から笑みが少し消えた。
それが、この戦最大の問題だった。
中国攻めは遠い。
遠ければ遠いほど、兵站が苦しくなる。
兵がいても、飯が届かねば終わる。
秀吉は言った。
「……北陸とは違うのう」
官兵衛が目を向ける。
秀吉は続けた。
「勝家殿は守り。
こちらは攻めじゃ」
「攻めながら兵糧を運ばねばならぬ」
官兵衛は静かに地図を指した。
「ですので、砦を繋ぎます」
「街道ごとに兵糧中継地を設置。
運搬を細かく区切れば、荷の損耗を減らせます」
秀吉が笑った。
「流石じゃな、官兵衛」
織田軍は、ただ進軍しているわけではなかった。
進むたびに砦を築き、
道を整え、
橋を直し、
補給路を作る。
工兵が先行し、山を削る。
荷駄が続く。
そこには岐阜から伝わった改造大八車も混ざっていた。
ぬかるみに沈みにくく、荷を安定して運べる。
秀吉は最初こそ半信半疑だった。
だが実際に使わせると、目の色が変わった。
「これは良い……!」
荷を引く兵の疲労が違う。
運搬速度も違う。
何より、雨で道が荒れても止まりにくい。
秀吉は笑った。
「殿はとんでもないものを考えさせる」
官兵衛が静かに付け加える。
「明智の姫君の案とも聞きます」
秀吉は少し驚いた顔をした。
「ほう……」
その目が細くなる。
「噂以上じゃな」
一方、毛利。
吉川元春、小早川隆景らは、織田軍の進み方を見ていた。
「止まらぬな」
元春が唸る。
普通なら兵站で止まる。
だが羽柴軍は進み続ける。
隆景が言った。
「兵糧の流れが切れておりませぬ」
「道を整えながら進んでおります」
元春が眉を寄せた。
「厄介じゃ」
毛利は守りに強い。
だが織田は、攻めながら補給してくる。
それは従来の戦とは違った。
そんな中。
ある小城の攻略で、新たな兵器が試された。
夜。
織田軍は城を包囲していた。
秀吉が問う。
「準備はどうじゃ」
兵が答える。
「完了にございます」
そこに並ぶのは小型投擲器。
そして油紙に包まれた焙烙玉。
さらにその内部には、陶器片。
秀吉は腕を組む。
「光秀殿が使ったというやつか」
官兵衛が頷く。
「はい。
丹波では効果があったとか」
秀吉は笑った。
「ならば見せてもらおうか」
合図。
投擲器が軋む。
次の瞬間。
焙烙玉が夜空を飛んだ。
轟音。
火が散る。
砕けた陶器片が周囲へ飛散し、悲鳴が上がる。
「ぐああっ!」
「目が……!」
「火だ!火を消せ!」
混乱。
さらに第二射。
第三射。
狭い城内では逃げ場がない。
秀吉は目を細めた。
「……なるほど」
官兵衛が静かに言う。
「城攻め向きです」
秀吉は頷く。
「兵を減らさずに削れる」
それが大きかった。
秀吉は無駄死にを嫌う。
使えるものは何でも使う。
「量産できるか」
官兵衛が答える。
「既存の焙烙玉を再利用すれば、ある程度は」
秀吉は即断した。
「やれ」
数日後。
小城は落ちた。
だが秀吉は浮かれていない。
毛利本隊はまだ健在。
そして毛利は、水軍を持っている。
補給線を断たれれば、織田軍は終わる。
秀吉は空を見た。
「……長い戦になるのう」
官兵衛が静かに言った。
「ですが、こちらは進んでおります」
秀吉は笑った。
「進むしかないんじゃ」
「殿は止まらん」
そして秀吉は地図を見つめる。
西へ。
さらに西へ。
その先には毛利。
そしてまだ誰も知らない。
この中国戦線が、後に本能寺へ直結することを。
だが今はまだ。
羽柴秀吉は、織田の刃として西へ進み続けていた。




