第百八話「京の重圧(光秀、休まらぬ日々)」
北陸からの報せは、京にも届いていた。
上杉謙信、退く。
柴田勝家、無血にて北を守り切る。
その報に、都の空気は大きく揺れた。
「織田は冬でも止まらぬ」
その言葉が、公家たちの間を静かに巡る。
京。
明智光秀の屋敷には、今日も人が絶えなかった。
公家。
寺社。
奉行。
各地からの使者。
次々に書状が積まれていく。
「丹波の件にございます」
「五摂家より問い合わせが」
「寺領の扱いについて比叡より――」
「北陸の兵糧輸送について――」
光秀は一つずつ目を通し、返答を指示する。
休む間はない。
朝は朝廷。
昼は政務。
夜は書状。
さらに丹波統治まで抱えている。
近習が言った。
「殿、少しお休みを――」
光秀は首を振る。
「急ぎだ」
「今は止めるわけにはいかぬ」
その声に疲れはあった。
だが弱さは見せない。
見せれば、京は不安定になる。
ある日。
五摂家の使者が現れた。
光秀は応対の間へ向かう。
襖が開く。
香の匂い。
静かな視線。
公家たちは柔らかな笑みを浮かべていた。
だがその目は笑っていない。
「明智殿」
「近頃は、まこと忙しゅうございますな」
光秀は礼を返す。
「恐れ入ります」
「織田と朝廷の橋渡し、容易ではありますまい」
光秀は静かに答えた。
「務めにございます」
公家の一人が口元を隠しながら言う。
「織田殿は強うございます」
「ですが強すぎる力は、時に周囲を疲弊させます」
別の者が続ける。
「明智殿ほどの御方が間におられるからこそ、都は保たれております」
光秀は表情を崩さなかった。
だが胸の奥が重くなる。
褒め言葉。
その形をした圧力。
「織田を抑えられるのはお前だけだ」
そう言われているに等しかった。
面会を終えた光秀は、廊下を歩く。
冬の冷気が頬を刺す。
ふと、足が止まった。
わずかに眩暈。
壁に手をつく。
近習が慌てた。
「殿!」
光秀はすぐ姿勢を戻した。
「騒ぐ
な」
「……少し疲れただけだ」
だが近習は見逃さなかった。
光秀の指先が、微かに震えている。
その頃、岐阜。
玉は帰蝶の部屋で書を整理していた。
そこへ信忠が入ってくる。
「玉」
その声に顔を上げる。
信忠の表情は硬かった。
「父上……いや、光秀殿のことだ」
玉の胸がざわつく。
「何か……ございましたか」
信忠は少し言葉を選んだ。
「京で倒れかけたらしい」
玉の指が止まる。
心臓が嫌な音を立てた。
(始まった)
そう思った。
まだ倒れていない。
まだ壊れていない。
だが確実に近づいている。
精神が削られている。
玉は静かに俯いた。
帰蝶が玉を見る。
「玉」
「お前が恐れているのは、これか」
玉はすぐには答えられなかった。
やがて小さく言う。
「……父は真面目です」
「抱え込みます」
「しかも誰にも弱みを見せません」
信忠も黙って聞いている。
玉は続けた。
「京と朝廷、織田の間に立ち続ければ……いずれ疲弊します」
帰蝶は目を閉じた。
「分かっていても、殿は光秀を使う」
「光秀ほど京を回せる者がおらぬからだ」
玉は唇を噛んだ。
理解できる。
信長が悪いわけではない。
だが、それでも危うい。
信忠が静かに言った。
「ならば、どうする」
玉は考える。
必死に。
父を守る方法を。
織田を壊さない方法を。
本能寺へ繋げない方法を。
だが答えはまだ見えない。
玉は小さく呟いた。
「……京を軽くしなければ」
帰蝶が目を細める。
「軽くする?」
玉は頷いた。
「父上に仕事が集まりすぎています」
「誰かが分け持たなければ、いずれ限界が来ます」
信忠は玉を見つめた。
玉の顔には、年相応ではない焦りが浮かんでいた。
それは未来を知る者の焦燥。
だが誰も、その本当の意味を知らない。
その夜。
京。
光秀は机に向かっていた。
灯りが揺れる。
積み上がる書状。
終わらない政務。
光秀は筆を止め、静かに目を閉じた。
耳鳴りがする。
頭が重い。
だが止まれない。
止まれば、京が乱れる。
信長の政が止まる。
光秀は再び筆を取った。
その背中は静かだった。
だがその静けさは、確実に何かを削っていた。




