表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/43

第十話「将軍の影」

朝の空気は冷たかった。

庭に出ると、草の匂いが鼻を刺す。

露が葉の上に残り、光を受けて小さく揺れていた。

私はその露を見ながら、思った。


――京も、こういう朝を迎えているのだろうか。

父がいる京。

文が届いた京。

噂が渦巻く京。

私には見えない場所。

見えないからこそ、怖い。

私は縁側に座り、足を揃えた。


姫らしく。

子どもらしく。

そうしなければならない。

私が少しでも不自然に動けば、すぐに誰かの目に引っかかる。


そして私は、まだ何も持っていない。

刀も。金も。味方も。

味方は、ようやく二人。


千代と、お松。

二人の耳が増えただけで、世界が少しだけ広くなった。

けれど、それでも足りない。

私は、父の背中を止めたい。


止めるには――

「何が起きているか」を知らなければならない。

そのために私は、今日も何気ない顔で屋敷の中を歩いた。

花を摘むふりをして。

散歩をするふりをして。

ただの退屈な姫として。


その途中、台所の方から声が聞こえた。

侍女たちの笑い声。

湯気の音。

桶の水が揺れる音。

私は足を止めた。

台所は情報の巣だ。


男たちは酒の席で話すが、

女たちは台所で噂を回す。

噂は、ここで煮込まれる。

私は障子の影に身を寄せ、耳を澄ませた。

「……京が怖いわ」

女の声が言った。


別の声が返す。

「そりゃ怖いよ。殿が京におられるんだもの」

殿。

信長。

私は喉が乾いた。

「怖いって、どういう意味?」

「どういうって……この前なんて、公家様が泣いてたって話だよ」

「泣いてた?」

「うん。殿の前で失言したって」

失言。


その言葉が、胸の奥で小さく弾けた。

戦国の失言は、死を呼ぶ。

私は息を殺す。

さらに声が続く。

「それに、将軍様の話もあるし……」

その瞬間、私は心臓が跳ねた。

将軍。


――将軍。

その単語は、私の記憶の中で黒く光った。

将軍は足利。

室町幕府。

織田信長に追われた将軍。

私は史実を完全には覚えていない。


けれど、「将軍」という言葉が今この時代で出ることが、異様に重いことは分かる。

「将軍様って……まだ生きてるの?」

「生きてるよ。でも……」

声が小さくなる。

私は身体が固まった。


台所の空気が、急に冷えた気がした。

そして、その沈黙を破ったのは――お松だった。

「しっ、声が大きいよ」

お松の声だ。


私は目を細めた。

やはりここにいた。

お松は、噂の中心にいる。

誰かが言った。

「でも本当だって。

殿が将軍様を……」

その先の言葉は、言い淀んだ。


誰もが口にしたくない言葉。

その言葉を、別の侍女が吐き捨てるように言った。

「殺すって噂」


――殺す。

私は一瞬、呼吸が止まった。

殺す。

将軍を。

そんなことが本当にあり得るのか?

分からない。


だが重要なのは真実ではない。

噂があること自体が、すでに危険だ。

京は騒がしいのではない。

京は、恐れている。


信長という男を。

「……将軍様を殺したら、世の中どうなるの」

誰かが震える声で言った。

「分からないよ。

でも殿ならやりかねないって……」

「殿は仏罰も恐れぬって言うしね」

「寺だって焼いたんだもの」


私は唇を噛んだ。

寺を焼いた。

比叡山。

その言葉は、私の中の歴史の知識と繋がっていく。

信長は強い。

そして恐ろしい。

恐ろしいからこそ、皆が従う。

従うからこそ、さらに恐れが増す。

その恐れは、誰かの心を壊す。


――父の心も。

私は背筋が冷たくなった。

父は理性の人だ。

だが理性の人ほど、恐怖を「正義」に変えてしまう。

「殿を止めるのは、もう誰もできないんじゃない?」

誰かがそう言った。


すると、お松が小さく笑った。

「止める?そんなの……無理だよ。

殿に逆らったら、首が飛ぶ」

首が飛ぶ。

侍女の言葉は軽い。

だが軽いからこそ、真実が混じる。

私は障子の影で、拳を握りしめた。

――この噂が、父の耳にも入る。


父は京にいる。

父はこの空気を吸う。

そして父は、信長に仕えている。

仕えているのに、信長を恐れる。

恐れながら仕える。

それは、心を削る。

私は息を吐いた。


この噂が真実かどうかは、今の私には分からない。

でも、ひとつだけ分かった。

京は、信長を恐れている。

だから騒がしい。

人は恐れたとき、噂を作る。

噂を作り、逃げ道を探す。

そしてその逃げ道が、誰かを裏切りへ向かわせる。


私はその時、ふと背後の気配に気づいた。

「姫様?」

千代だった。

私は肩を震わせそうになったが、すぐに笑顔を作った。

「千代。ここ、いい匂いする」

千代はほっとしたように笑う。

「台所でございますから」


私はわざと子どもらしく言った。

「甘いもの食べたい」

千代が少し困ったように笑った。

「奥方様に伺って参ります」

千代が去った瞬間、私は小さく息を吐いた。

危なかった。


今の私は、噂を聞いていた。

それだけで疑われる。

私はすぐに廊下を離れ、庭へ出た。

風が吹いて、髪が揺れた。

私は庭の石を踏み、花の前でしゃがみ込んだ。

ただ花を見ている姫のふりをする。

でも頭の中は、激しく回っていた。


将軍暗殺の噂。

それが本当なら、京はさらに荒れる。

本当でなくても、噂が広がるだけで世の空気は歪む。


歪んだ空気は、父の心を削る。

削られた心は、いつか折れる。

折れた瞬間に、人は――何かをする。

私は花を摘みながら、心の中で整理した。

信長が怒っているかどうかは分からない。


でも、京が恐れている。

恐れは、憎しみに変わる。

憎しみは、正義に変わる。

正義は、刀を抜く理由になる。

私は花を握りしめた。

柔らかい花びらが潰れ、指先に汁がついた。

その感触が、血のように思えてしまい、私は思わず手を離した。


落ちた花が、土の上で静かに横たわる。

私はその花を見下ろしながら、呟いた。

(父上は、京で何を見ているの)

(何を聞いているの)

(何を抱えて帰ってくるの)

答えは分からない。


分からないから、私は次の準備をする。

耳を増やす。

噂を集める。

そして――

父が帰ってきた時、私は父の目を見る。

目を見て、分かるはずだ。

父が「まだ父でいるのか」

それとも、未来の光秀になりかけているのか。

私は立ち上がり、袖で手を拭った。


花の汁が消えない。

まるで未来の染みのように。

私は空を見上げた。

青い空が広がっている。

けれど私は知っている。

この空は、いつか炎の色になる。

だから私は、今この瞬間から、静かに動く。


将軍の影が京を覆うなら、

その影の中で父が迷う前に――

私は、父の手を掴まなければならない。

姫として。

娘として。

そして、未来を知る者として。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ