第十話「将軍の影」
朝の空気は冷たかった。
庭に出ると、草の匂いが鼻を刺す。
露が葉の上に残り、光を受けて小さく揺れていた。
私はその露を見ながら、思った。
――京も、こういう朝を迎えているのだろうか。
父がいる京。
文が届いた京。
噂が渦巻く京。
私には見えない場所。
見えないからこそ、怖い。
私は縁側に座り、足を揃えた。
姫らしく。
子どもらしく。
そうしなければならない。
私が少しでも不自然に動けば、すぐに誰かの目に引っかかる。
そして私は、まだ何も持っていない。
刀も。金も。味方も。
味方は、ようやく二人。
千代と、お松。
二人の耳が増えただけで、世界が少しだけ広くなった。
けれど、それでも足りない。
私は、父の背中を止めたい。
止めるには――
「何が起きているか」を知らなければならない。
そのために私は、今日も何気ない顔で屋敷の中を歩いた。
花を摘むふりをして。
散歩をするふりをして。
ただの退屈な姫として。
その途中、台所の方から声が聞こえた。
侍女たちの笑い声。
湯気の音。
桶の水が揺れる音。
私は足を止めた。
台所は情報の巣だ。
男たちは酒の席で話すが、
女たちは台所で噂を回す。
噂は、ここで煮込まれる。
私は障子の影に身を寄せ、耳を澄ませた。
「……京が怖いわ」
女の声が言った。
別の声が返す。
「そりゃ怖いよ。殿が京におられるんだもの」
殿。
信長。
私は喉が乾いた。
「怖いって、どういう意味?」
「どういうって……この前なんて、公家様が泣いてたって話だよ」
「泣いてた?」
「うん。殿の前で失言したって」
失言。
その言葉が、胸の奥で小さく弾けた。
戦国の失言は、死を呼ぶ。
私は息を殺す。
さらに声が続く。
「それに、将軍様の話もあるし……」
その瞬間、私は心臓が跳ねた。
将軍。
――将軍。
その単語は、私の記憶の中で黒く光った。
将軍は足利。
室町幕府。
織田信長に追われた将軍。
私は史実を完全には覚えていない。
けれど、「将軍」という言葉が今この時代で出ることが、異様に重いことは分かる。
「将軍様って……まだ生きてるの?」
「生きてるよ。でも……」
声が小さくなる。
私は身体が固まった。
台所の空気が、急に冷えた気がした。
そして、その沈黙を破ったのは――お松だった。
「しっ、声が大きいよ」
お松の声だ。
私は目を細めた。
やはりここにいた。
お松は、噂の中心にいる。
誰かが言った。
「でも本当だって。
殿が将軍様を……」
その先の言葉は、言い淀んだ。
誰もが口にしたくない言葉。
その言葉を、別の侍女が吐き捨てるように言った。
「殺すって噂」
――殺す。
私は一瞬、呼吸が止まった。
殺す。
将軍を。
そんなことが本当にあり得るのか?
分からない。
だが重要なのは真実ではない。
噂があること自体が、すでに危険だ。
京は騒がしいのではない。
京は、恐れている。
信長という男を。
「……将軍様を殺したら、世の中どうなるの」
誰かが震える声で言った。
「分からないよ。
でも殿ならやりかねないって……」
「殿は仏罰も恐れぬって言うしね」
「寺だって焼いたんだもの」
私は唇を噛んだ。
寺を焼いた。
比叡山。
その言葉は、私の中の歴史の知識と繋がっていく。
信長は強い。
そして恐ろしい。
恐ろしいからこそ、皆が従う。
従うからこそ、さらに恐れが増す。
その恐れは、誰かの心を壊す。
――父の心も。
私は背筋が冷たくなった。
父は理性の人だ。
だが理性の人ほど、恐怖を「正義」に変えてしまう。
「殿を止めるのは、もう誰もできないんじゃない?」
誰かがそう言った。
すると、お松が小さく笑った。
「止める?そんなの……無理だよ。
殿に逆らったら、首が飛ぶ」
首が飛ぶ。
侍女の言葉は軽い。
だが軽いからこそ、真実が混じる。
私は障子の影で、拳を握りしめた。
――この噂が、父の耳にも入る。
父は京にいる。
父はこの空気を吸う。
そして父は、信長に仕えている。
仕えているのに、信長を恐れる。
恐れながら仕える。
それは、心を削る。
私は息を吐いた。
この噂が真実かどうかは、今の私には分からない。
でも、ひとつだけ分かった。
京は、信長を恐れている。
だから騒がしい。
人は恐れたとき、噂を作る。
噂を作り、逃げ道を探す。
そしてその逃げ道が、誰かを裏切りへ向かわせる。
私はその時、ふと背後の気配に気づいた。
「姫様?」
千代だった。
私は肩を震わせそうになったが、すぐに笑顔を作った。
「千代。ここ、いい匂いする」
千代はほっとしたように笑う。
「台所でございますから」
私はわざと子どもらしく言った。
「甘いもの食べたい」
千代が少し困ったように笑った。
「奥方様に伺って参ります」
千代が去った瞬間、私は小さく息を吐いた。
危なかった。
今の私は、噂を聞いていた。
それだけで疑われる。
私はすぐに廊下を離れ、庭へ出た。
風が吹いて、髪が揺れた。
私は庭の石を踏み、花の前でしゃがみ込んだ。
ただ花を見ている姫のふりをする。
でも頭の中は、激しく回っていた。
将軍暗殺の噂。
それが本当なら、京はさらに荒れる。
本当でなくても、噂が広がるだけで世の空気は歪む。
歪んだ空気は、父の心を削る。
削られた心は、いつか折れる。
折れた瞬間に、人は――何かをする。
私は花を摘みながら、心の中で整理した。
信長が怒っているかどうかは分からない。
でも、京が恐れている。
恐れは、憎しみに変わる。
憎しみは、正義に変わる。
正義は、刀を抜く理由になる。
私は花を握りしめた。
柔らかい花びらが潰れ、指先に汁がついた。
その感触が、血のように思えてしまい、私は思わず手を離した。
落ちた花が、土の上で静かに横たわる。
私はその花を見下ろしながら、呟いた。
(父上は、京で何を見ているの)
(何を聞いているの)
(何を抱えて帰ってくるの)
答えは分からない。
分からないから、私は次の準備をする。
耳を増やす。
噂を集める。
そして――
父が帰ってきた時、私は父の目を見る。
目を見て、分かるはずだ。
父が「まだ父でいるのか」
それとも、未来の光秀になりかけているのか。
私は立ち上がり、袖で手を拭った。
花の汁が消えない。
まるで未来の染みのように。
私は空を見上げた。
青い空が広がっている。
けれど私は知っている。
この空は、いつか炎の色になる。
だから私は、今この瞬間から、静かに動く。
将軍の影が京を覆うなら、
その影の中で父が迷う前に――
私は、父の手を掴まなければならない。
姫として。
娘として。
そして、未来を知る者として。




