第十一話「目を持つ」
噂は影だ。
影だけでは、形が分からない。
距離も分からない。
誰が本当に動いているのかも見えない。
私が欲しいのは「目」だった。
父が京で何をしているのか。
どんな顔で、誰と会い、どんな言葉を交わしているのか。
そして織田家の空気が、どれほど張り詰めているのか。
本能寺まで、まだ遠い。
だからこそ私は思う。
まだ間に合う、と。
火が上がる前なら、水を運べる。
火が上がってからでは、何をしても遅い。
そのために私は、状況を知りたかった。
父が追い詰められる前に。
父が決意してしまう前に。
改善するための「理由」を探すために。
その日、私は縁側で書の稽古をしていた。
筆を持ち、紙に線を引く。
まだ手が小さく、思うように運べない。
それでも私は、丁寧に書いた。
「玉」
その二文字は、私の名前であり、私の檻だ。
この名のまま生きれば、私は炎に焼かれる。
なら私は、この名を守るために戦うしかない。
そう思いながら筆を走らせていると、廊下から足音が聞こえた。
男の足音。
そして、母の部屋の前で止まった。
「奥方様、京より使いが参りました。
殿の書状にございます」
その声を聞いた瞬間、私の指先が冷たくなった。
殿――父だ。
父からの文。
私は筆を止めない。
止めてはいけない。
ここで反応すれば、私の異常さが露わになる。
私はただ、墨を紙に落とし続けた。
それでも耳だけは、母の部屋へ向いている。
襖の向こうで、母の声が静かに響いた。
「……分かりました。こちらへ」
紙が擦れる音。
封を切る音。
その音が、私には刃物のように聞こえた。
私は手元の字を崩さないように必死だった。
姫の稽古。
ただそれだけの顔でいなければならない。
しばらくして、使者が去る足音が遠ざかった。
私はその瞬間、息を吐いた。
その息さえも、胸の奥で震えていた。
少しして、別の足音が近づいた。
今度は女の足音。
静かで、無駄がない。
私は顔を上げた。
襖の前に立っていたのは、見慣れない侍女だった。
背は高く、顔は整っているが表情が固い。
年は三十前後。
何より目が鋭い。
――この目は、噂話の目ではない。
仕事の目だ。
侍女は丁寧に頭を下げた。
「姫様」
私は首を傾げる。
「あなた、だれ?」
侍女は静かに答えた。
「志乃と申します。
殿のお部屋の手入れを任されております」
父の部屋。
私は胸の奥で小さく息を呑んだ。
来た。
私が欲しかった「目」だ。
父の部屋に出入りする者。
父の私室の空気を知っている者。
父の疲れや苛立ちを、誰より近くで見る者。
けれど同時に危険でもある。
父に近い者ほど、口が重い。
父に忠義が強ければ、私の動きはすぐ父に伝わる。
だから私は、慎重に。
姫らしく。
子どもらしく。
私は紙を指差した。
「志乃、見て。わたし字を書いてる」
志乃は一歩近づき、紙を覗いた。
「……立派でございます」
私は首を振る。
「ぜんぜん。まだへた」
そして、笑いながら言った。
「父上が帰ってきたら、見せたいの」
志乃の目が、ほんのわずか柔らかくなった。
「殿は、お喜びになりましょう」
その言葉で分かった。
志乃は父を敬っている。
そして恐れてもいる。
私はさらに続けた。
「志乃は、父上の部屋に入るんでしょ?
父上って、どんな顔してる?」
志乃は少し迷った。
だが答えた。
「……お忙しそうなお顔をされております」
私は心の中で拳を握った。
忙しい。
忙しいという言葉は、まだ安全だ。
だが忙しさは、積もれば心を削る。
私は首を傾げ、無邪気に聞く。
「京って、疲れるの?」
志乃の眉が、ほんの少し動いた。
そして、静かに頷いた。
「……疲れる場所でございます」
それだけで十分だった。
京は父を疲れさせる。
ならば京は、父を変える。
私はさらに踏み込む。
でも踏み込みすぎない。
私は声を柔らかくした。
「父上、怒ってる?」
志乃の表情が、一瞬だけ硬くなった。
その沈黙は答えだった。
怒りではない。
けれど、心が荒れている。
志乃は言った。
「殿は……お怒りというより、
深くお考えでございます」
深く考えている。
その言葉は、私には怖い。
父が深く考える時、答えはいつも「正しい」方へ向かう。
そして正しさは、時に人を殺す。
私は笑って見せた。
「そっか。父上って、難しい顔するよね」
志乃は、少しだけ頷いた。
私はここで、目的を変える。
探るのではなく、頼る。
子どもは、頼れば自然だ。
私は袖を握り、少しだけ寂しそうな声を出した。
「志乃。お願いしていい?」
志乃は背筋を伸ばす。
「はい」
私は言った。
「父上が帰ってきたら教えて。
わたし、迎えたいの」
志乃は一瞬だけ黙った。
断られるかもしれない。
そう思った瞬間、志乃は小さく頷いた。
「……承知いたしました」
その返事を聞いた瞬間、胸の奥に灯がともった。
私は、父の近くに「目」を置いた。
志乃は父の部屋を任されている。
父が帰れば、必ず知る。
父が疲れていれば、必ず見る。
その「見たもの」が、私に届く。
私は志乃に微笑んだ。
「ありがとう、志乃」
志乃は頭を下げた。
「恐れ入ります」
志乃が去ったあと、私は筆を握り直した。
紙に線を引く。
けれど心は、もう別の場所にあった。
耳は揃った。
次に目が揃った。
千代とお松は屋敷の噂を拾う耳。
志乃は父の近くで動く目。
これで私は、父の「今」を知れる。
父が戻った時、私は父の目を見る。
その目が、いつも通りの父の目なのか。
それとも未来へ傾き始めた目なのか。
私はそれを確かめる。
本能寺まで、時間はある。
だからこそ私は願う。
父が壊れる前に、
父が追い詰められる前に、
何かを変えたい。
私は机の端に置いた覚え書きを取り出した。
そして、墨を含ませ、静かに書き足す。
「志乃 殿の部屋」
「父上の帰り 知らせ」
「京 疲れる」
「殿 深く考える」
墨が紙に染みていく。
私はその黒を見つめながら、心の中で呟いた。
(これで少し、見える)
(少しずつでいい)
(未来が燃える前に)
外では鳥が鳴いていた。
何も起きていない日の音。
けれど私は知っている。
この平穏は、永遠ではない。
だから私は今日もまた、静かに準備をする。
明智玉として。
炎に焼かれる未来を、
この手で塗り替えるために。




