6.ダークブルーの星空
しばらく手を引かれて歩くと、アパートメントのある通りまで戻ることができた。
その間ロイドは一言も話さず、アリシアも声を発することができなかった。
結局迷惑をかけてしまった。もう会わないと決めたのに。身勝手に逃げ出した結果、こんな面倒に巻き込んでしまった。
「ロイド……ごめんね……」
背中に向かって改めてぽつりと呟くと、ロイドはぐるりと向きを変え、アリシアの真正面に立ちどまった。
彼は何度か口を開いたり閉じたりした。落ち着きなく、ずれた眼鏡を触ってその位置を直す。
ようやくアリシアを見た彼の視線は、すぐに地面に落ちた。
「僕のことが……嫌いに、なったんですか」
何を言われたかさっぱり分からず、息の仕方を忘れた。
「そんなわけない!」
「ならどうして!」
怒っている。
静かな怒りを感じ取り、アリシアは繋いでいた手をびくりと跳ねさせた。戸惑いが心の中を占める。
「どうして、僕を避けたんですか……」
まるで捨てられた子犬のような、そんな彼の目が、揺れながらアリシアを見ていた。
それを見て、彼の怒りが自分に向けられたものではないことを悟る。
アリシアは深く息を吸った。
「……ロイドのことが、好きだって思ったからだよ……」
居たたまれなくなり、深く顔を俯かせた。
束の間の沈黙が、怖い。
「分かりません。どうして好きだと避けるんですか。それとも……もう僕には興味がないんですか」
そう言って、ロイドはアリシアの顔をそっと覗き込んだ。
眼鏡の奥のダークブルーの瞳が、すぐ目の前にある。
ぶわっと顔に血が上り、アリシアはぎゅっと唇を結んだ。
「いろいろ、あるの。そうしないといけない理由が」
つながれたままの手が不意に恥ずかしくなって、反対の手でそっとロイドの手を外した。
一旦離れた彼の手は、今度はアリシアの両の手首を掴んだ。
気遣われていると分かる、強くも弱くもない力だった。
「納得できる答えをください。僕には分からない」
そのまま腕を引かれて、変な声が出た。
至近距離で、眼鏡越しにも強い光を放つダークブルーの瞳がアリシアを見下ろしている。
街灯の光を映しこんだその瞳はまるで満天の星空のようで、アリシアは自分の状況も忘れてその瞳に見惚れた。
ロイドはこんなに背が高かっただろうか。
まつ毛も、こんなに長かっただろうか。
そもそも、こんな距離で、ロイドの顔を見たことがあっただろうか。
ぎょっとした顔になるロイドが、「ど、どうして泣くんですか」と狼狽えている。しかしその手はアリシアの手首を優しく握ったままだった。
「ごめん……大丈夫気にしないで。突然ロイド供給が過多になったものだからつい……」
余計なことを口走ったような気もするが、ロイドはほっとしたようにため息をついた。
そしてこちらをジトっとした目で見ている。
「アリシアが嫌じゃないのならそれでいいです、もう……」
ロイドはふと周りを見渡した。
人通りは決して多くはないが、全くないというわけでもない。こちらに無遠慮な視線を向けてくる人も幾人かいる。
彼は困ったように眉を下げた。
「ここは人の目があります。どこかゆっくり話せる場所に移動したいんですが……」
「あ、じゃあうちに来る? 散らかってるけど」
「え……それで大丈夫なんですか?」
そう問われ、アリシアは小首を傾げた。
「なにかダメなの?」
がっくりと肩を落とすロイドだが、軽く頭を振ってアリシアを再び見下ろした。アリシアはきょとんとその瞳を見返す。
「アリシアがいいならいいんです……。じゃあ、行きましょうか」
掴まれていた手首がそっと離され、二人で並んで歩く。
アリシアは、規則正しく並ぶ街灯を見上げた。普段見慣れている光景だが、今日はより一層街灯の明かりがキラキラと輝いているような気がした。
ロイドと話すことをずっと恐れていたが、思ったよりも素直に話ができたのが嬉しかった。
部屋に着くと、アリシアは戸の鍵を開けてどうぞ、と彼を招き入れた。
少し躊躇ったような様子を見せながら、ロイドはお邪魔しますと言っておずおずと部屋の中へ入っていった。
アリシアは一旦居間の様子を見て、床に転がっている靴下だけ何とか片付けたところでロイドに椅子を勧めた。
彼はすぐには座らず「まずは傷の手当てをしましょう」と言って、貯めていた水で傷口を洗い、布切れを当てて簡単な手当てをしてくれた。
「ロイド、ありがとう」
慌ただしくお茶を準備し、借りてきた猫のように椅子へちょこんと腰かけている彼の前に湯気の立つカップを置く。
「ごめんね、こんなものしかないんだけど。お夕飯は食べた?」
「まだですが……」
「そっか! 好き嫌い特になかったよね。何か適当に用意するね」
「いや、お構いなく……って、聞いてないですね」
どったんばったんとしながら、アリシアは買い置きのパンをスライスしてチーズを乗せ、テーブルに準備した。
忙しくしているほうが、何も考えなくていい。アリシアはわたわたと手を動かしながら、この後何を言われるのかとひっそり恐怖していた。
そしてついにやることも無くなってしまい、アリシアは観念して彼の正面の椅子に座った。
「……」
沈黙が食卓に降りる。
ロイドがひっそりとため息をつき、アリシアはびくっと肩を跳ね上げた。
「変なんです。アリシアが僕の学校まで来なくなったと分かってから」
「え?」
ロイドがじっとアリシアの顔を見ていた。その目はどこか昏い色をしている。吸い込まれそうだ。
「……知ってたの?」
「バレていないとでも思ってたんですか」
「……」
思っていました。
胡乱げな視線を向けられるのもなんだか懐かしく思えたが、アリシアは目を泳がせてあさっての方を見た。
まさかバレていたとは。
「……ずっと胸に何かがつっかえているような気がするんです。………………アリシアがいないと、落ち着かない」
小さく絞り出すようにそう言って、彼は一口お茶を飲み、そっと俯いた。カップを置く音が大きく響く。
アリシアも押し黙って、カップから立ち上る湯気をじっと見つめた。
「……あの子は、」
不安は、つい口をついて出た。
「あの子がいるから、ロイドは大丈夫じゃないの?」
思いがけず、棘のある声が出た。そんな自分にももどかしく、アリシアは眉根を寄せた。
「『あの子』って……」
「いや、いいの、忘れ——」
「……ブロンドの髪、ですか?」
「……」
不安の種を彼に言い当てられ、まじまじと見つめてしまう。
ロイドは、視線を落として下唇を噛んでいた。まるで、傷ついているかのようだ。
「……やっぱり、そうなんですね」
「だって、仲良さそうに歩いてるところを見たの。お付き合いしてるんでしょ? 私なんかよりずっと綺麗な人だし……」
言いながら声はどんどん小さくなり、視線は下を向く。
こんなことを言い出す自分が嫌だった。消えてなくなりたいとすら思った。
「今はもう話もしません。彼女のことは、嫌いです」
「えっ、そんな、どうして……」
やっぱり、自分は彼の幸せの邪魔をしてしまったのではないか。
どうしたら償えるだろう。
瞬きを繰り返し、視線を泳がせる。
「わかった、それなら私がロイドにぴったりのいい人を探すね」
なんとか捻り出せた答えはそれだった。なんて馬鹿なことを言っているのだろう。
でも、コントロールを失ったこの口は止まらない。
ロイドはわずかにぽかんと口を開いたままアリシアを凝視している。
穴が開くほどに見つめられて、アリシアの頭の中はさらにぐちゃぐちゃになっていった。
「ご、ごめんね、私あんまり交友関係が広くないから……。でも私の友達にもね、すごく、すごく美人で頭も良くて、親切な女の子が何人かいるんだ。あ、そうだ、今度会ってみる? きっと何人か会えばロイドにびったりの素敵な人が見つかると思うの、だから」
身が引き裂かれそうな思いをしながら一気に捲し立てる。
言いながら、酸欠になりそうな苦しさを感じた。
「アリシア。申し訳ないのですが、あなたの口からそんなことは聞きたくない」
低く硬い声が耳に届き、アリシアは言葉を続けようとしたその口のまま硬直した。
「そんなに、僕と会っているのが嫌ですか」
蚊の鳴くような押し殺した声が聞こえた。
アリシアは見たことがないほど悲しそうな顔をするロイドを見、わたわたと顔の前で手を振った。
「えっ、ちが、ちがうよ。好きで好きで、どうしようもないから、辛いんだよ……」
悲しそうなロイドを見ているのが辛くて、涙目で彼を見つめると、みるみるうちにロイドの顔が赤く染まる。
手を口元にあて、何やらモゴモゴと言っている様子だったが、何を言っているかは聞き取れなかった。
軽く咳払いしたロイドは口を開いた。
「と、とにかく……僕はアリシアに避けられるのが辛いんです。そういう、ことなら……僕を避けないでくれますか」
「うん、わかった……」
ほっと一息ついたところで、知らずアリシアの口元には小さく笑みが浮かんだ。
安心したらぽろりと涙が零れ落ちた。はっとして俯くと、ふと目元に何かが当てられる。
視線を上げると、昔のような優しい眼差しでアリシアを見つめるロイドが、そっと白いハンカチを彼女の目元にあててくれていた。なつかしさに胸を衝かれて目を細めると、ロイドもこぼれるように笑った。
そして決意したように一度頷くと、顔をさらに真っ赤にさせ、何かを言いたげに口をパクパクと開けたり閉めたりした。
「僕も……その……君のことを、す、………………だ、大事に、思っているので……」
「ありがとう。私も、ロイドのことが一番大事!」
えへへ、と泣きながら笑うアリシアをみて、なぜかロイドはがっくりと首を落とした。
不思議だなぁ、とアリシアは小首を傾げる。
どうしたの? と聞いても、何でもないんです、としか返ってこなかった。




