3.曇天
「今日はね、声をかけるだけかけてみようと思うの!」
アリシアはふんすふんすと鼻息も荒くそう宣言した。カミラは「ついに決心したのね……!」と言って、よよよと泣き真似をしている。アルフレッドは「おう、がんばれよー」と言いながら、横目で泣き真似をするカミラに冷たい視線を送っていた。
「今日は私もついて行っちゃうわよ~!」
「今日も、の間違いだろ。でも、俺もついていくとするか」
「あら珍しい。昨日はしぶしぶついて行っていたような気がするんだけど?」
「……まぁな。でもこいつにしては珍しく、ちゃんと決心して声をかけるって言ってるしさ」
えへへ、と頬をかく。
「ま、でもあんたもついてきてくれるなら、アリシアが無事幼馴染とお話しできたときに一人で帰らなくて済むわね」
「だろ。感謝しろよ」
わいわいと話しながら前を歩く二人について、学園へ向かった。
アリシアがふと空を見上げると、分厚い雲が頭上に垂れこめている。
「雨、降りそうだね」
「そうね。なんかジメっとしてるしね」
「傘なんて持ってきてないぞ」
なんて、話しながら歩くうちに学園にはすぐに着いた。
胸を押さえながらいつもの場所で待機すると、ロイドの銀髪が目に入り込んでくる。
きた。ロイドだ。
息を吸い込む。
「ロイ——」
「ロイド!」
前に歩き出そうとしたアリシアの足が、その場に縫い留められたように止まる。
アリシアの声に重なって、高く可愛らしい女の子の声がロイドを呼んだ。
ひりつく喉に張り付いて、ロイドの名前は口から出せなくなってしまった。
「……、あ……」
呼びかけに振り向いたロイドと、一瞬目が合ったような気がした。
でも、気のせいだったのかもしれない。
プラチナブロンドの長髪を靡かせて走る、華奢な体格の女の子がロイドの横に並び立った。友人、というには、いささか近すぎる距離だ。
プラチナブロンドの彼女は、ロイドの腕にちょんちょんと触れる。
反応して横を向いたロイド。その耳元に向かって、彼女は何かを囁いている様子だった。
彼女は横目にこちらを見た。
可憐な少女の口元は、にまりと笑みの形に歪んでいた。
世界がぐにゃりと曲がって、自分に覆いかぶさってくるような感覚に襲われた。
その重さに耐えきれず、アリシアは視線を地面に落とす。
感覚を失いかけた手に、温かいものがふれた。
「アリシア……」
視線を横にずらすと、アリシアの手をカミラの手が包み込んでいた。
カミラが眉を寄せてアリシアをじっと見つめている。
世界に音が戻り、人混みのざわざわとした喧騒がやたらと耳にこびりついた。
ぽた、と冷たい雫が顔に触れる。
覆いかぶさる雲は、ついに雨粒を落とし始めたようだった。
「……このままでいると、濡れるから。帰ろう」
普段より低いアルフレッドの声が、頭に染み渡る。
アリシアは、わずかにうなずいて見せた。
カミラの温かい手が、肩に触れる。
「私……」
かすれた声が口から漏れた。
「ロイドが、幸せに暮らしていれば……それでいいと思ってたの……」
胸の中に、どす黒く醜い蛇のような感情がとぐろを巻いて、アリシアの心臓を締め上げている。
「でも、そうじゃなかった……」
一層小さく小さく縮こまるアリシアを、カミラが抱きしめる。
知りたくなかった。
あの場所は、今までアリシアがいた場所だったのに。
この感情に名前が付くことを、アリシアは母を見て知っている。
醜い醜い嫉妬が、アリシアのことを冷たく睨みつけているのだ。
自分に、こんな感情があるなんて、知りたくなかった。
母もこの苦しみを味わったのか。
寒気が足元から這い上がってくる。
遠くでごろごろと雷が鳴る音がした。
気づいたら家にいて、ベッドに腰かけていた。
プラチナブロンドが脳裏にちらついている。
「きれいな人だったなぁ……」
胸元に垂れる、雨で濡れた茶色い髪は、ごくありふれた色彩だ。
「ロイドには、あのくらいきれいな人じゃないと、釣り合わないもんね……」
アリシアは選ばれなかった。
薬師に横恋慕する母を哀れに思っていたが、いざ同じ立場になるとただただ悲しかった。
視界が歪んで、膝に温かい水滴がこぼれ落ちた。
こぼれた涙に慌てて誰にも見られないようにすっぽりと布団を被ったが、母はもう近くにいないのだから母の機嫌を気にせず好きに泣いても良いのだということに、今更ながらやっと気付いた。
だが、それと引き換えに、白いハンカチはもう差し出されることはない。
眠れないまま夜を過ごし、のろのろと準備をして、家を出た。
「こっちの学校や、学校だけじゃなく王都にだって他にもいろんな男はいるわけだし……まぁ元気出せって! ……って、痛ぇ!! 何するんだよ!」
「馬鹿! あんた無神経すぎるでしょ!」
眉を下げながら言ったアルフレッドの頭を、カミラが素早く叩いて説教していた。スパーンといい音がした。
普段と変わらないそんな様子を見ていたら少し安心して、アリシアはへらりと笑った。
いい友人たちだ。こんな友人を持てただけでも自分は幸せ者なのだ。
にこにこと笑っていると、黙りこんだ二人がじっとこちらを見ていて、アリシアは首を傾げた。
眠気と考え事で講義には集中できず、結局ぼんやりとしたまま学校は終業の時間になった。
今日は幸運なことにアルバイトも入っていなかった。食事の調達だけして帰ろうかと思ったが、食欲もなかったため自分のアパートメントへすぐに帰ることにした。
「あー……やること、ないなぁ」
帰ってきたは良いが、なにもする気力が起きない。
ロイドは今、何をしているだろう。
ふとそんな考えが浮かんで、自分にがっかりした。まだ彼への執着を捨てることができない。
ため息をついて、アリシアは部屋の窓へ近づいた。
この部屋を選んだ理由は、一番星が最もきれいに見える部屋だったからだ。
もう、意味がなくなってしまった。
アリシアはそっと窓にカーテンを下ろした。一番星の残像が網膜に焼き付いている。
体力も眠気も限界だった。アリシアは何もせず、ベッドに潜り込んで深い眠りに落ちていった。
* * * * *
学校の友人たちはみんな優しい。
放課後のお出かけをやめたら無気力になってしまったアリシアを気遣って、ご飯に連れ出してくれるようになった。アリシアも気遣ってもらっていることは重々承知していたので、何とか笑顔を作って食欲のない胃に食べられるものを詰め込んだ。
「ほら、忘れるためには新しい恋が必要だと思うのよ。私のいとことか、会ってみない?」
カミラはさっぱりしているように見えて意外に面倒見がいい。そんなことを言って、食事にいとこを連れてきたこともある。
連れてこられた男の子は年下で、明らかに面倒くさそうな雰囲気を出していた。おそらくカミラに言われて無理やり連れてこられたのだろう。アリシアは彼を可哀想に思うと同時に申し訳なくなってしまった。
結果、その食事会は盛り上がりに欠け、いとこ君は終了後そそくさと帰っていった。
帰り道、カミラと二人で通りを歩く。
狭さに見慣れた夜空には、星一つ見えない。今日は日中も曇り空だった。
どんよりとした空気が隣から漂ってきて、アリシアは苦笑した。
「カミラ、大丈夫だよ。彼も好きな子とかいるだろうし……。私のことはそんなに気にしなくても」
「ごめん、アリシア。うまくいかなくて……」
「ううん、気持ちは嬉しいよ。そろそろ立ち直らないといけないよね。心配かけてごめんね」
肩を落とすカミラに、アリシアは微笑みかけた。
自分の言葉を噛み締める。そうだ、本当にもうそろそろ立ち直って、普段通りの生活に戻らなければ。
将来のことを考えて、勉強と生活費を稼ぐことに専念しよう。
そう思って、かなり先までアルバイトの予定を詰め込み、合間に勉強のスケジュールを立てた。
何かを忘れるためには、忙しくしているのが一番いい。
アリシアは予定をびっしりと書き込んだ手帳をそっと閉じ、指の背で表紙を撫でた。
この手帳はこちらに引っ越してきたときに、ロイドと一緒に買い出しに行って買ったものだった。そういえば、彼も似たような手帳を購入していたっけ。
この部屋のものは、王都に来てから買いそろえたものばかりだ。
あれも、これも。
買い替えるだけのお金は今、手元にない。
いつか、何も思わなくなる日が訪れるだろうか。
カーテンを下ろしたままの窓をじっと眺め、アリシアはため息をついた。




