11.帰省
村に帰省したのは本当に久しぶりだ。この凍えるような村の寒さを忘れていた。
アリシアは乗合馬車の長旅で凝り固まった体をぐいっと伸ばした。
「大丈夫ですか、アリシア」
「うん、まぁ。でもちょっと心配かも」
隣のロイドが顔を覗き込んでくる。素直に気持ちを打ち明けると、彼は「そうですよね」と言って苦笑した。
「一旦荷物を実家に置いてきます。アリシアも来ますか?」
「え? 私は実家にそのまま向かうつもりだったけど」
「やめた方がいいと思いますよ。おばさんと話し合ったあと、そのまま何事もなく実家に泊まれると思ってます?」
「た、たしかに……じゃあお言葉に甘えようかな……」
すごすごとロイドの後ろについて歩き、ロイドの両親に簡単に挨拶を済ませてから荷物を置かせてもらった。なんだか生温かい視線を送られたような気がしたが、ロイドに聞いてもはぐらかされるだけだったので追及するのはやめた。
ロイドの実家からアリシアの実家まではそう遠くはない。歩くほどにどんどん口数が少なくなっていく。
あの母が素直にアリシアの言うことを聞き入れてくれるとは到底思えなかった。
ふと、互いの手の甲が触れ合った。
反射的に引っ込めようとしたが、ロイドの手がアリシアの手をそっと包み込む方が先だった。
「ぼ、……僕が、ついていますから」
少し逸らされた顔。その耳が赤くなっていた。
それを見て、アリシアは自分の肩からふっと力が抜けていくのが分かった。
「うん、そうだね……ありがとう、ロイド」
そう言って、へにゃ、と笑う。こうやって隣で支えてくれる彼がいることのどんなに幸せなことだろう。
アリシアはそっと包まれた手を握り返した。
それ以上の言葉を交わすことなく、家が見えてくるころには、繋いだ手はどちらからともなく離されていた。
ひと呼吸置き、わずかに震える手で家の扉をノックする。
はーい、と中から返事があり、母が顔を出した。にこやかな母だが、ロイドを見て一瞬怪訝そうな顔をする。
「久しぶりね」
「うん、久しぶり。なかなか帰れなくてごめんね」
「ところで……どうしてロイド君が一緒なのかしら?」
「あー……まぁ、ちょっといろいろと……」
やっぱり、うまく話せない。目線を泳がせるアリシアを見かねてか、ロイドが一歩前へ踏み出した。
「僕もちょうど彼女に合わせて帰省しましたので。おばさんともお久しぶりですし、ご挨拶でもと思いまして」
「あら、そう……」
微笑みながらいけしゃあしゃあと述べるロイド。
静かな火花が母とロイドとの間で散った気がしたが、母は意外にもすんなり扉を押し開け、二人を家に招き入れた。
久しぶりの実家は、さほど変わってはいなかった。
木製のダイニングテーブルに案内され、アリシアとロイドは促されるまま席に着いた。お茶を淹れてくれた母が、それぞれの前に湯気の立つカップを置く。
口元に微かな笑みを浮かべた母がアリシアを見た。アリシアの肩が小さく竦む。
「アリシア、あなた村にはいつ帰ってくるの? そろそろこの村の薬師にも話を通しておかないと」
「え……いや……」
本当は王都で働きたい。ロイドと一緒にいたい。
喉まで出かかっている言葉は、何かで栓をされているように出てこない。
「いいえ。彼女は僕と結婚して王都で働く予定です」
横からかけられた言葉に、ハッとする。隣を見ると、ロイドは平然とした顔でまっすぐに母を見つめていた。
え? 結婚??
状況も忘れてアリシアはロイドの胸倉を掴んで問い詰めたい気持ちになった。
しかし、驚いた拍子にフリーズしていた思考が動き出した。少しの間思案すると、納得のいく考えが浮かぶ。
なるほど、作戦か。さすがロイド。
心の中でポンと手を打つ。ロイドお得意のハッタリには、乗るのが正解だろう。
「あら……初めて聞いたわ。そんなことないわよね? アリシア」
「……」
二人分の視線が、アリシアに集まる。
アリシアは顔を上げ、射貫くような母の視線に応えた。
「……ううん。私は村には戻らないつもり。王都で働こうと思うの。村にはたまに顔を出すよ」
「約束が違う気がするのだけれど?」
「約束って……村に帰ってくる、ってこと?」
「そうよ。そういう約束で王都の学校に行ったんじゃない。忘れたの?」
穏やかな声と言葉ではあるが、こめかみが引き攣っている。これは、身に沁みついた、ひどく躾けられるときの前兆だ。
喉に言葉が張り付く。
「で、でも。私、王都で頑張りたい……って、思って……」
「王都じゃなくたって、好きなことはできるわよ」
「……そうじゃない。そうじゃ、ない……。ど、どうして、私の話を……ちゃんと聞いてくれないの?」
声がみるみるうちに小さくなっていく。母は、にんまりと笑った。
「お母さんの言うことを聞いているのが一番いいのよ。いつもそうだったでしょう?」
いつも。
いつもいつも、抑えつけられて、痛い思いをした。
「違う! お母さんは……私の気持ちなんて一度もちゃんと聞いてくれなかった! 私と向き合ってなんてくれなかった!」
「まあ、母に向かってなんて口の利き方をするの? ここまであなたを育てたのは私よ。母に感謝の気持ちはないの?」
「そういう話じゃ……」
「ほら、いいから帰ってきなさい」
頭が真っ白になり、もう何も言葉が浮かんでこない。
はくはくと言葉と空気を飲み込む。
手足がしびれて感覚を失いかけたとき、アリシアの手を温かいものが包んだ。
そうだ、一人じゃない。
アリシアは、数回大きく息を吐いた。
「……私は確かにお母さんの言う通り、薬師になるよ。でも、私が働きたいのはここじゃない。この村じゃないの。王都ならいろんな症例を経験できるし、新しい薬の研究だってやってる。治せる病気も、増えてきたところなんだよ。治せる病気をもっと増やすことが、私の夢なの」
「この村の薬師になるって、あなた言ったじゃない。嘘をついたの?」
「……この村で私に薬師になってほしかったのは、お母さんの方でしょう!」
目をつぶって、言い切った。嫌な汗がこめかみを流れ、鼓動が耳元で大きく聞こえる。
返答が無かったため恐る恐る目を開いて母を見ると、母はただ、唇を震わせてアリシアのことを信じられないものを見るような目で見つめていた。
言えた。
横目にロイドの方を見ると、彼は黙って頷いた。
「大丈夫。アリシアの言いたいことを、言えばいいんです。僕が、隣にいますから」
静かで小さな声だったが、それだけで十分だった。
「私は薬師としてやりたいことを王都で見つけたの。だから、この村には戻ってきたくない。そもそも、この村の薬師ならもともといる薬師の先生がいるじゃない。これ以上薬師を増やしても、仕事の取り合いになっちゃうだけだよ」
「口だけは達者になっちゃって……。王都で変なことを吹き込まれたのね。いいから、王都のことは忘れて戻っていらっしゃい。王都なんて、怖いところよ。お母さんだって若い頃は王都にいたんだから。悪い人がたくさんいたでしょう。村にいれば安全なのよ。戻ってきなさい」
「そりゃ、怖いこともあったけど……ロイドもいるし、大丈夫だよ」
「男に頼らず自力でやろうって気概はないの? この村なら自分の力だけで頑張れるわよ」
「で、でも……」
「……確かに、ロイド君のことは昔から知ってるから安心かもしれない。でも、王都に残るようにあなたに言ったのはどうせ彼でしょう? 口先だけよ、そんなの。男を簡単に信用しちゃだめよ」
「失礼ですが。僕は本気ですよ」
「まさか。どうしてうちの娘を誑かすような真似をするのかしら」
「誑かすだなんて。僕はアリシアのことを心から大事にしているつもりですよ。おばさんの方こそ、アリシアを縛り付けるようなことばかり言うのはやめてください」
母は、フン、と鼻を鳴らした。もう取り繕うのはやめたようだ。
「あんたに指図される言われはないわ。私は娘と話しているの。邪魔をしないで。……ねぇ、アリシア。また、ここで二人で暮らしましょう。お母さんの言うことを聞いていれば、あなたは幸せになれるのよ」
「ううん。もう私はあなたの操り人形にはならない。この村に私の居場所はないの。……私を思うなら、好きにさせてください」
「誰が、操り人形だなんて言ったの?」
アリシアをその場に縫い留めていた視線は、隣の男へ移される。アリシアと同じ金の瞳が細められ、凍てつく冷たさを帯びた。
「……そう、その男が悪いの。こうやって口先だけで丸め込もうとするような男だものね。こんな男、やめなさい。お母さんのところが、一番安全なのよ」
「違う! ロイドは私のことを理解してくれているし、私にとって何が一番いいかを分かってくれてる。だから、今日一緒についてきてくれたの。ずっと……ずっと、我慢してた。言いたいことも言えない関係なんて、おかしいよ。お母さんが私の気持ちをちゃんと聞いてくれたことがあった? いつもいつも、言うことを聞かなければ殴ったり食事を抜いたり、お母さんの思うとおりにならなければ私にひどいことをした! 育ててくれたことには、感謝していないわけじゃない。でも、もうお母さんの言うことばかりを聞いていられない。私にもやりたいことが見つかったの。もう、私は誰かの庇護がなければ生きていけないような子供じゃない!」
話しているうちに、今までため込んでいたものが濁流のように押し寄せる。
アリシアは一息に話し、立ち上がった。
「黙って聞いていれば身勝手なことばかり! いいからお母さんの言うことを聞きなさい! そうやってお母さんを悪者にして!」
激高した母が、拳を振り上げるのを見た。
世界が停止する。
いつも見ていた。
怒りに赤く染まる母の顔を。
振り下ろされる手のひらを。
いつものように。
身が竦む。
目は逸らせない。
頭を庇う。
「おっと……。冷静になりましょうよ、おばさん」
ロイドはいとも容易く母の振り下ろされた手首を掴み、少しずれた眼鏡を直した。
離しなさい、と藻掻く母だったが、徐々に荒い息を整え、その手の力を抜いた。
それを確認し、ロイドも拘束を解く。
彼がまだ固まったままのアリシアの肩にそっと手を添えてくれ、ようやく息を吐くことができた。
「僕はおばさんに隠れてこっそり泣いているアリシアをずっと見てきたんです。身勝手なのは、あなたの方だ」
静かな声が、母の体を打ち据える。
目を見開いたまま顔を伏せる母の手が小刻みに震えていた。
いつもとは、違う。
だって、隣にはロイドがいる。
初老の女のわななく唇から、かすれた声が漏れる。
「……そうやって私を悪者にしてきたのね。この男が悪いんだわ……アリシア、こんな悪い男なんて捨てて、お母さんといらっしゃいな」
アリシアは胸を張り、思っていたよりも背が低くなってしまった母をじっと見つめ、はっきりと言い放つ。
「絶対に嫌!」
「……あらそう、じゃあ好きになさい! もう一生あんたの顔なんか見たくないわ! 二度とこの村に帰ってくるんじゃないわよ!!!」
こちらの顔も見ずに怒鳴りつけた母は、もう湯気の立たなくなったカップの中身をアリシアにぶちまけ、カップまで投げつけてきた。
アリシアの額に当たったカップは床に落ち、粉々に砕け散る。
母はそのまま奥の部屋へ立ち去り、バタンと大きな音を立てて扉を閉ざした。
アリシアの額に傷がないことを慌ただしく確認し、白いハンカチで濡れたところを丁寧に拭き取ったロイドは、突き刺すような鋭い視線で閉ざされた扉を睨みつけた。
「……もう我慢なりません」
「いいの、ロイド」
今にも追いかけに行きそうなロイドの手を握って、引き留めた。
珍しく動揺を隠さない様子に、ついクスっと笑ってしまうと、それをみてロイドはぽかんと勢いがそがれたような顔をした。
「言いたいことがちゃんと言えた。分かり合えなかったけど、私にとっては、もう十分。お母さんは私のことを本気で思ってくれているわけじゃなくて、言うことを聞くお人形が惜しかっただけなの。だから、もういいんだ」
「……ですが」
なおも食い下がるロイドの背をずいずいと押して、外へ出る。
外は晴れ渡る空で、目が眩んだ。目を細めて伸びをすると、森の中にあるこの村らしい、清涼感のある空気が肺を満たしていく。
「私たちは理解しあえないんだよ。親子だって、そういう人もいる。うちがたまたまそうだっただけ。だから、もういいの。……そう思えるのは、ロイドがいてくれるおかげだよ。今日も、ロイドが隣にいてくれたから自分の思いを正直に話せた。ひとりぼっちだったら、怖くてきっと言えなかった。ありがとう、ロイド」
「僕でよければ、いくらでもアリシアの助けになります」
「えへへ。嬉しい。ロイド大好き!」
耳まで真っ赤に染めたロイドは、しきりに眼鏡を触って位置を何度も直した。
どうしたの? と聞いても返事がない。
仕方がないのでそのまま歩き出したが、彼が立ちどまってしまったのでアリシアは後ろを振り返った。
数回口を開け閉めするも、何も言わない彼に、アリシアは首を傾げる。ロイドは唇を一度舐め、咳払いをした。先ほどまでとは打って変わって、もごもごと小さい声で言う。
「それで、その……結婚の、こと、なんですが……」
「あ、あれね! 大丈夫、勘違いしてないよ。作戦だったんでしょ? 気にしないで! ねっ」
慌てたようにそう伝える。勝手に本気にされる方が嫌だろう。
アリシア以上にあたふたとした様子のロイドは「あ……いや……」と言いながら視線を彷徨わせていたが、最後には閉口した。
そしてそのままガクッとくずおれたのを、アリシアは不思議そうに見ていた。




