第9話:勝利の祝杯と、冷たい指輪
「生稲さん、おめでとう!」
「歴史的な大逆転劇だったよ!」
オフィスに戻ったあたしを待っていたのは、割れんばかりの拍手と賞賛の嵐だった。
ダイコク商事の大型案件を、あの「ハラグロ」から奪い返した英雄。デスクにはお祝いの花束や差し入れの高級スイーツが並び、あたしはまさに人生の絶頂にいた。
「……ふん、浮かれちゃって。鼻の下がエベレストより高くなってるわよ」
そんなあたしの耳元で、毒を吐く声。
振り返ると、私物を持ってエレベーターに向かうすずねがいた。今回の敗北で、彼女は担当を外れ、一時的に別支社への異動が決まったらしい。
「すずね……。あんた、本当に行くの?」
「言ったでしょ。負けたら居場所がないのが、あたしの世界なの。…… shadow。でも、忠告しておくわ。今回のことで、如月家を本気にさせたわね。高橋美玲は……あたしみたいに分かりやすい毒は持っていないわよ」
すずねはそれだけ言うと、一度も振り返らずに去っていった。
勝利の余韻が、少しだけ冷たい風にさらわれた気がした。
その夜、あたしは義之に連れられて、いつもの公園……ではなく、少し背伸びをした夜景の見えるテラス席にいた。
「コンペの打ち上げだ。今日くらいは贅沢してもバチは当たらないだろ」
義之は慣れない手つきでシャンパンを注いでくれる。
スーツを完璧に着こなした今の彼は、公園でココアを飲んでいた幼馴染みとは別人に見える。
「……ありがと。ねえ、義之。 shadow。半年、延期したって言ったわよね」
「ああ。祖父さんを説得するのは骨が折れたがな。美玲さんにも……一応、話は通してある」
「一応って……。あんなに綺麗な婚約者がいて、あたしなんかといていいの?」
シャンパンの泡を見つめながら、本音が漏れた。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「ひとみ。……俺が如月家という重荷を背負ってでも、守りたいと思ったのは誰だと思ってるんだ」
義之が、テーブル越しにあたしの手を握った。
大きくて、温かくて、節くれだったその手。
「半年。その間に、俺は家からの独立を画策する。お前が営業のエースとして駆け上がるなら、俺はそれを支えるだけの力をつける。……だから、余計な心配はするな」
「……義之……」
あの日、雨の中で叫んだ「奪い取ってやる」という言葉。
今はもう、あたし一人だけの戦いじゃない。
私たちは、夜景の光に包まれながら、静かに、でも確かに想いを通わせた……。
「——あら。お邪魔だったかしら?」
氷の柱が背筋を通り抜けたような感覚。
声のした方を向くと、そこには。
夜のテラスに不釣り合いなほど白く、輝くような和服姿の美玲が立っていた。
「美玲……! なぜここに」
義之が立ち上がる。
「おじい様から伺いましたの。今日はこちらでお祝いをされていると。…… shadow。生稲さん、改めておめでとうございます。素晴らしいプレゼンだったそうですね」
美玲は、完璧な所作で私の隣に座った。
彼女が手を動かすたび、左手の薬指で、大粒のダイヤモンドが夜景の光を反射して、残酷なまでに美しく輝く。
「義之さん、おじい様がお呼びですわ。『半年の猶予を与えたからには、その間の義務は果たせ』と。……今夜は、実家の方へ戻りましょう?」
「……今夜はひとみの祝勝会だ。明日にしてくれ」
義之の声が低くなる。
「あら、困ったわ。……生稲さん、ごめんなさいね。実は昨日、おじい様が少し体調を崩されまして。……義之さんの顔を見れば、きっと良くなられると思うのですけれど」
嘘だ、と直感した。
けれど、そんな「優しくて正当な理由」を突きつけられたら、あたしには何も言えない。
美玲は、あたしの心を一歩ずつ、丁寧に、そして確実に踏みにじっていく。
「……義之、行きなさいよ。会長の体調が一番だわ」
あたしは精一杯の笑顔を作った。
「ひとみ、でも……」
「いいから! あたしはもう十分お祝いしてもらったし。ね?」
義之は苦渋に満ちた表情で、美玲に促されるように席を立った。
「……ごめん。後で連絡する」
美玲は去り際、あたしの耳元で、雪が降るような冷たい声で囁いた。
「生稲さん。……義之さんの『情け』を、愛だと勘違いなさらないで。半年の間に、あなたがどれほど彼に相応しくないか、思い知らせて差し上げますわ」
二人の背中が、夜の街に消えていく。
テーブルに残された二つのシャンパングラス。
あたしのグラスの中の泡は、もう、消えかかっていた。
第9話をお読みいただきありがとうございました!
ついに幕を開けた第2部。美玲の真の恐ろしさがひとみを襲います。
【次回予告】
第10話:ガラスのヒールと、氷の晩餐会




