第10話:ガラスのヒールと、氷の晩餐会
「……これ、あたしに着ろって言うの?」
デスクに届けられた、目も眩むようなサックスブルーのドレス。イタリアの老舗ブランドのタグが、今のあたしには挑戦状に見えた。
差出人は、高橋美玲。
同封されたメッセージカードには、『如月家の功労者である生稲さんを、一族の晩餐会にご招待します』という、完璧なまでの「正論」が綴られていた。
「ひとみ、行く必要はない。あいつらが何を企んでいるか……」
義之が険しい顔で止めに来たけれど、あたしはドレスの裾を強く握りしめた。
「いいえ、行くわよ。逃げたら、一生あいつらの前で顔を上げられなくなる。……義之、あたしが『ただの幼馴染み』じゃないってこと、証明してやるわ」
如月家の本邸は、都心とは思えないほど静謐な森の奥に鎮座していた。
門を潜れば、そこは別世界。シャンデリアが輝く大広間には、政財界の大物たちが顔を並べている。
あたしは慣れないドレスの裾を気にしながら、背筋を伸ばして会場に入った。
「あら、生稲さん。よくお越しくださいました。そのドレス、やはりお似合いだわ。……少し、背伸びさせてしまったかしら?」
会場の中央で、純白のドレスを纏った美玲が微笑んでいた。
彼女の周りには、あたしの年収を指輪一つで買えそうな夫人たちが取り巻いている。
「お招きありがとうございます、美玲さん。……素敵なパーティーですね、仕事のヒントになりそうだわ」
あたしは営業スマイルを崩さない。
「仕事、ですのね。……皆様、ご紹介しますわ。 shadow。こちら、如月家の『恩人』である生稲ひとみさん。……先日のコンペでも、義之さんのために、とても泥臭く動いてくださったのよ」
美玲の言葉に、周囲からクスクスという忍び笑いが漏れた。
『泥臭い』。この場では、それは最上級の侮蔑だった。
「如月家の家系図に、そのお名前は載ることはないでしょうけれど……今日は特別なお客様として、楽しんでくださいね」
美玲の攻撃は止まらない。
食事の作法、ワインの銘柄、交わされる会話の教養。
あたしが仕事で積み上げてきた「正義」が、この場では一円の価値もないかのように扱われていく。
義之は会長に捕まり、遠くの席で厳しい顔をしてこちらを気にしているけれど、助けに来ることはできない。
「……ふう」
耐えきれず、バルコニーの冷たい空気を吸いに出た。
「……何が社交界よ。バカバカしい」
握りしめたシャンパングラスが、微かに震える。
「……情けない顔だな。営業のエース様が」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには、なぜか給仕のフリをした扇山すずねが立っていた。
「すずね!? なんであんたがここに……」
「異動の前に、如月家の動向を探りに来たのよ。……それより、あの子の言いなりになって、黙って笑ってるつもり? 昔のあたしなら、今頃あの子のドレスに赤ワインをぶっかけてるわよ」
すずねは冷ややかに笑い、あたしの手に一枚のメモを握らせた。
「これ、会長が一番気にしている『裏の資産運用』のデータよ。……美玲の家、高橋家が裏で動かしている不透明な金の流れ。……使い方は、あんた次第よ」
「……すずね、どうしてあたしに……」
「勘違いしないで。……あたしは、自分を縛り付けたこの『古い世界』が、あんたみたいな無鉄砲な女にかき乱されるのが見たいだけよ」
すずねはそう言うと、闇に溶けるように去っていった。
会場に戻ると、ちょうど美玲が義之の隣で、親族一同に向けて挨拶を始めようとしていた。
「……本日は、皆様に大切なご報告がございます。義之さんと私、来月の——」
「ちょっと待ってください!」
あたしの声が、静まり返った広間に響いた。
美玲の表情が、初めて一瞬だけ歪む。
「……生稲さん、お行儀が悪いですわよ。今は私が——」
「美玲さん、おじい様に報告すべきことは、他にもあるんじゃないですか? ……高橋家が、如月家の名を借りて進めている、海外への不正送金の件について」
会場が凍りついた。
会長が、手にした杖を畳み付け、義之が目を見開く。
「……な、何を言っているの!? 根拠のない……!」
「根拠なら、ここにあります。……義之が守ろうとしているこの家を、あなたたちが食い物にしている。……それが、あなたの言う『相応しい』振る舞いなんですか?」
私は、美玲の目の前まで歩み寄り、彼女の左手のダイヤモンドを見据えた。
「私は泥臭い女ですよ。……でもね、泥の中にだって、守らなきゃいけない誇りがあるの。……美玲さん、あなたの負けよ。この半年、待つまでもないわ」
あたしは、呆然とする美玲を置き去りにして、義之の元へ歩み寄った。
「義之。……あたし、このドレス、やっぱり似合わないわ。……公園に、行かない?」
義之は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに吹き出すように笑った。
「……ああ。行こう。……会長、失礼します。俺は、俺が選んだ『正義』と共に行きます」
義之が私の手を力強く引き、如月家の豪華な門を飛び出した。
後ろで美玲の絶叫が聞こえた気がしたけれど、もう関係ない。
夜の街を、ドレスの裾を翻して走る。
ガラスのヒールなんて脱ぎ捨てて、裸足で。
あたしたちの、本当の戦いは、ここから始まる。
第10話をお読みいただきありがとうございました!
ついに如月家の本邸で美玲の鼻をあかしたひとみと義之。しかし、これによって名門・如月家を完全に敵に回すことに……!
【次回予告】
第11話:孤立無援の戦場と、騎士の帰還




