第7話:裏切りのレッドカーペットと、揺れる天秤
最終プレゼンまで、あと三日。
社内の空気は、高圧電線のようにパチパチと張り詰めていた。営業部は連日の徹夜で、コーヒーの香りとキーボードを叩く音だけが響いている。
「ひとみ、これ……最終チェック用の資料だ」
義之が、目の下にクマを作りながらUSBメモリを差し出した。
「義之……あんた、昨日も寝てないんでしょ。もういいわよ、後はあたしが——」
「いいから受け取れ。……お前との『約束』、まだ生きてるんだろ?」
義之は無理に口角を上げた。電話で交わした『勝ったら自由を頂戴』という、無茶苦茶な約束。彼はそれを、自分の未来を懸けて守ろうとしていた。
その時、私のデスクの電話が鳴った。恵比寿さんからだった。
「生稲さん。プレゼン前に、一度だけお会いできませんか? 大事な話があるんです。……今夜、 shadow。八時にいつもの場所で」
恵比寿さんの声は、どこか切羽詰まっているように聞こえた。
指定されたバーは、以前デートしたあの隠れ家。
恵比寿さんは先にカウンターで、琥珀色の液体が入ったグラスを眺めていた。
「生稲さん。……実は、ダイコク商事の上層部で、ハラグロプロダクションを推す声が急激に強まっています」
「え……? でも、中間プレゼンの評価はうちの方が……」
「扇山さんが、私の知らないところで動いたようです。……彼女、私の親族が経営している法人のトラブルを、秘密裏に解決して回っているらしい。……一種の貸しを、作られた形です」
私は絶句した。
仕事の成果ではなく、相手のプライベートな弱みに付け込んで盤面をひっくり返す。それがすずねのやり方。
「……汚い。どこまで卑怯なのよ」
「生稲さん。私は、あなたの企画で進めたい。……もし、あなたが今回のコンペを辞退して、私の『パートナー』になってくれるなら、私はあらゆる手を尽くして君を守る。……仕事としての君じゃなく、一人の女性としての君を、手に入れたいんだ」
恵比寿さんが、私の手をそっと握った。
完璧な王子様からの、突然のプロポーズに近い告白。
彼と一緒にいれば、すずねとの消耗戦からも、義之を巡るドロドロした家柄問題からも、すべて解放される。温かくて、約束された幸せな未来。
(……これ、あたしがずっと欲しかった『勝ち』じゃないの?)
でも。
握られた恵比寿さんの手は、冬の公園で渡されたあの安っぽいココアの缶ほど、私の心を熱くはしなかった。
「……恵比寿さん。ありがとうございます。でも、私は——」
その瞬間、バーの扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、肩で息をする扇山すずねだった。
「あら、ごめんなさい。密会中だったかしら?」
すずねはいつもの完璧な微笑みを浮かべているが、その瞳には焦燥の色が混じっている。
「すずね……あんた、ストーカーでもしてるの?」
「そんな暇はないわよ。……恵比寿さん、上層部から至急の連絡です。……ハラグロプロダクションとの独占契約書に、今すぐサインを。生稲さんのプレゼンは『情報漏洩の疑い』で、正式に調査が入ることになりました」
「なっ……!?」
私は立ち上がった。すずねが手に持っているタブレットには、私が義之から受け取ったはずの極秘データが、ハラグロ側のサーバーから流出したという偽造のログが表示されていた。
「これ、あなたがやったのね……!」
「証拠はあるのかしら? ……さあ、恵比寿さん。決断を」
すずねの目は、もう狂気に近かった。
彼女もまた、ここで負ければ「家」に連れ戻される。この一戦は、彼女にとっても後がない崖っぷちの勝負だったのだ。
恵比寿さんは、私とすずねを交互に見つめ、深く、深く溜息をついた。
「……プレゼンは中止しません。三日後、公の場で決着をつけましょう。……生稲さん、扇山さん。どちらかが『本物』か、そこで証明してください」
バーを出ると、夜風が火照った顔を冷やした。
すずねが私の隣で、ボソリと呟いた。
「……ひとみ。あなた、なんでそんなに平気な顔をしていられるの? 私はもう、これしか……勝つことしか残っていないのに」
「……平気なわけないじゃない。あたしだって、怖くて足が震えてるわよ」
私は、自分の手を強く握りしめた。
「でもね、すずね。あたしには、あんたにはない『最強の武器』があるの。……泥を被るのを厭わない、最高に馬鹿で優しい幼馴染みがね」
家紋入りの印章、美玲のピアノ、恵比寿さんの誘惑。
すべてを飲み込んで、運命のプレゼン当日の朝がやってくる。
会社に向かう途中、公園に寄ると、義之がいた。
彼は何も言わず、一本の缶を差し出した。
「ココア?」
「いや、今日はこれだろ」
受け取ったのは、真っ赤な缶のコーラ。
「……よっしゃ。炭酸で、すずねの化けの皮、全部弾き飛ばしてやるわ!」
「……行ってこい。俺の『自由』、しっかり奪いに来いよ」
私はコーラを一気に飲み干し、缶を……今度は潰さずに、 shadow。ゴミ箱に綺麗に投げ入れた。
最終プレゼン、開始五分前。
私は真っ白なスーツの袖を捲り上げ、ダイコク商事の大会議室へと足を踏み入れた。
第7話をお読みいただきありがとうございました!
【次回予告】
第8話:鋼のプレゼンテーションと、沈黙の守護者




