第6話:純白の刺客と、すずねの傷跡
雨の中の「宣戦布告」から数日。
私は、あの日の義之の悲しげな瞳を思い出すたび、胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚に陥っていた。
仕事は順調。恵比寿さんからも「次の最終プレゼンは、君の独壇場だね」なんて、最高に嬉しい言葉をもらっている。
なのに、私の心はちっとも晴れない。
「生稲さん、受付にお客様です。……高橋様とおっしゃる、とても綺麗な方ですが」
後輩の声に、嫌な予感がした。
ロビーに向かうと、そこには。
パールのネックレスに、淡いピンクのワンピース。非の打ち所がないほど上品で、それでいてどこか「触れれば壊れてしまいそう」な儚さを纏った美女が立っていた。
「……初めまして。高橋美玲と申します」
彼女が微笑んだ瞬間、ロビーの空気が一変した。
これが、義之の許嫁。私がどんなに背伸びしても届かない「正統派のヒロイン」が、そこにはいた。
「義之さんから伺いました。……いつも、公私ともに支えてくださっているそうですね。お礼を言いたくて」
美玲さんの言葉は丁寧で、棘なんて一つもない。
shadow。でも、その『余裕』が、今の私には一番の攻撃だった。
「いえ、そんな。あたしはただの幼馴染みで……。……義之は、元気ですか?」
「ええ。昨夜も、家で私のピアノを聴きながら、穏やかに過ごしておりましたわ」
(家で、ピアノ……?)
私の知らない義之の日常。公園でスチール缶を潰す私を笑う義之ではなく、格式高い屋敷で、美しい婚約者の旋律に身を委ねる義之。
心臓が、嫌な音を立てて波打つ。
「生稲さん。……義之さんは、私の人生のすべてなんです。ですから、彼が余計な迷いを持たずに済むよう、見守ってあげてくださいね」
それは、優雅な微笑みに隠された、明確な『境界線』だった。
美玲さんが去った後、私は放心状態で給湯室に向かった。
そこで鉢合わせたのは、意外な人物だった。
「……あら。あんなお嬢様に牽制されて、もう戦意喪失かしら?」
扇山すずね。彼女はいつもの完璧なメイクで、冷めたコーヒーを捨てていた。
「すずね……。あんた、見てたの?」
「ええ。……高橋美玲。如月家の古いしきたりが生んだ、最高傑作の操り人形。……反吐が出るわ」
すずねの言葉に、私は驚いて顔を上げた。
彼女の瞳が、いつになく暗く、深く沈んでいたから。
「すずね……あんた、どうしたの? いつもみたいに毒を吐きなさいよ」
「……私ね、あの子を見てると、昔の自分を思い出して吐き気がするのよ」
すずねは窓の外を見つめ、自嘲気味に笑った。
「完璧でなければいけない。感情を殺して、家の駒として生きなければいけない。……私もかつて、そんな風に育てられたわ。でもね、ひとみ。私はあの子みたいに『いい子』にはなれなかった。……だから、今の私があるの」
すずねが、初めて見せた『素』の顔。
彼女がなぜ、あんなに卑怯な手を使ってまで「勝つこと」に執着するのか。
それは、彼女にとっての「勝ち」だけが、かつて自分を縛り付けた「家」や「過去」から自由になれる、唯一の証明だったから。
「……すずね」
「同情なんてしないで。……私は、あなたも、あの美玲って子も、全員叩き潰して、私が一番であることを証明する。……恵比寿さんも、今回の案件も、全部私のものよ」
すずねはそう吐き捨てると、カツカツと鋭いヒールの音を響かせて去っていった。
彼女の背中が、一瞬だけ、震えているように見えた。
その夜。
私は迷った末、義之に電話をかけた。
呼び出し音が続く。……切れる寸前で、つながった。
「……もしもし、ひとみか?」
「義之。……今日ね、美玲さんに会ったわよ」
電話の向こうで、義之が息を呑むのがわかった。
「……あいつ、会社に行ったのか」
「ええ。……ピアノ、 shadow。上手なんですってね。……ねえ、義之。あんたの幸せって、何?」
沈黙が続く。
街灯の明かりが、私の部屋のカーテンを微かに照らしている。
「……わからない。……でも、お前と公園でココアを飲んでた時だけは、何も考えずにいられた」
「……バカ。……あたしもよ」
私は、スマートフォンの画面を強く握りしめた。
「義之。あたし、次の最終プレゼン、絶対に勝つ。……すずねにも、あんたの家柄にも、美玲さんにも負けない。……あたしが勝ったら、あんたの自由を、あたしに頂戴」
「……ひとみ……」
「おやすみ、義之」
電話を切り、私は鏡の前の自分を見た。
涙なんて出ていない。
そこには、恋に破れた女でも、仕事に疲れたOLでもない。
すべてを奪いに行く覚悟を決めた、一人の「女」の顔があった。
第6話をお読みいただきありがとうございました!
【次回予告】
第7話:裏切りのレッドカーペットと、揺れる天秤




