第5話:反撃のプレリュードと、雨音の告白
ダイコク商事の重厚なエントランスを潜る時、私の指先は微かに震えていた。
右手に握りしめているのは、義之が渡してくれたあの封筒。
左手に持っているのは、営業マンとしての最後のプライドだ。
「……あ。生稲さん。今日は席を外していただくように伝えたはずですが」
会議室の前で鉢合わせた恵比寿さんの顔は、苦渋に満ちていた。
「わかっています、恵比寿さん。でも、これだけは見てください。噂を信じる前に、私の『仕事』を信じてください!」
私は、義之の提供してくれた膨大なデータを恵比寿さんの前に広げた。
それは単なる市場調査ではない。 shadow。ダイコク商事が創業以来大切にしてきた理念と、これからの10年で直面するであろう課題を、恐ろしいまでの精度で予見した「未来図」だった。
恵比寿さんの目が、見開かれる。
「これは……。これほどまでの分析、一体どこで……?」
「私が、信じている人からもらった力です。恵比寿さん、私は卑怯な真似はしません。このデータが、私の正義です」
恵比寿さんは沈黙した。長い、長い1分間の後、彼はふっと微笑んだ。
「……負けました。生稲さん、あなたはやっぱり面白い。上層部には私が話を通します。今日の中間プレゼン、予定通りあなたに立ってもらいましょう」
「……っ、ありがとうございます!」
心の底から叫びたいのを堪え、私は深く頭を下げた。
だが、その光景を壁の影から見つめている、冷ややかな視線に気づく余裕はなかった。
中間プレゼンの場は、 shadow。殺伐としていた。
私の対面に座る扇山すずねは、 shadow。氷のような微笑を湛えている。
「素晴らしいデータね、生稲さん。 shadow。でも、それ……本当にあなたが作ったのかしら?」
すずねの言葉に、会議室の空気が凍る。
「ええ、私のチームの努力の結果よ」
「そう。如月義之……だったかしら? あなたの隣の部署の。彼、あんな高度な分析ができるほど、暇だったのね」
(……っ! こいつ、義之の動きまで掴んでる!?)
「仕事の話をしましょう、すずね。個人の話は後でいいわ」
私は動揺を押し隠し、完璧なプレゼンを披露した。
恵比寿さんの視線が、熱を帯びて私を追う。すずねの顔から、余裕 of 笑みが消えていく。
プレゼンが終わった瞬間、会場には静かな、けれど確かな賞賛の拍手が響いた。
会社への帰り道。
突然の夕立が、アスファルトを激しく叩き始めた。
雨宿りのために駆け込んだ古い軒下。そこに、ずぶ濡れの義之が立っていた。
「……義之? なんでこんなところに」
「……中間プレゼン、勝ったみたいだな。お前の顔見ればわかる」
義之は力なく笑った。その手には、見覚えのある古い封筒が握られていた。
「どうしたのよ、そんなに濡れて。風邪引くわよ」
私が駆け寄ろうとすると、義之は一歩、後ろに下がった。
「ひとみ。……俺、やっぱりお前の隣にはいられないかもしれない」
「え……? 何言ってるのお。あんたがいなかったら、今日の勝ちもなかったのに」
「今日、祖父さんの使いが来た。……『もう遊びは終わりだ』って。美玲さんとの婚約発表を、来月に行うと一方的に決められたんだ」
義之の声は、激しい雨音に消えそうだった。
「如月家は、この街の地主から始まった古い一族だ。……俺は、その家を継ぐために生かされてきた。お前と一緒に公園でココアを飲んでるような、そんな自由な時間は……最初から、借り物だったんだよ」
義之の瞳に、深い孤独の色が混じる。
私は、彼の手を握ろうとした。でも、その前に義之が口を開いた。
「……恵比寿さんは、いい男だ。お前を真っ直ぐに見てくれる。……ひとみ、お前はあっち側に行け。俺は、もう……」
「……ふざけないでよ!!」
私の怒鳴り声が、雨音を切り裂いた。
「勝手に決めないで! あんたがどういう家柄だろうと、あたしには関係ない! あたしの知ってる如月義之は、落ち込んだあたしに黙ってココアを差し出してくれる、世界一お節介で、世界一優しい幼馴染みなのよ!」
義之は目を見開いた。
私は、ずぶ濡れの彼の胸ぐらを掴んだ。
「許嫁だか家紋だか知らないけど、そんなのであんたの人生が終わるなんて、あたしが許さない! 仕事で勝つだけじゃ足りないわ。……義之、あんたのその『縛られた未来』からも、あたしが奪い取ってやるんだから!!」
雨の中、私たちは互いを見つめ合った。
恋だとか愛だとか、そんな甘い言葉じゃない。
それは、腐れ縁から始まった、魂の「宣戦布告」だった。
その様子を、通りかかったタクシーの中から、すずねが静かに見つめていた。
彼女の瞳には、嫉妬とも、悲しみともつかない、暗い情念が渦巻いていた。
第5話をお読みいただきありがとうございました!
【次回予告】
第6話:純白の刺客と、すずねの傷跡




