第4話:泥だらけの正義と、隠された家紋
「……なによ、これ。冗談じゃないわよ!」
翌朝のオフィス。私の怒声は、デスクに積み上げられた資料の山に虚しく吸い込まれた。
すずねの妨害は、企画の盗用だけでは終わらなかった。業界内の噂好きの連中の間で、私の「身に覚えのない悪評が広まり始めていたのだ。
『エンジェルハートの生稲は、契約を取るために枕営業紛いのことをしている』
『ダイコク商事の恵比寿を色仕掛けで落とそうとしている』
根も葉もない噂。けれど、 shadow。そんな泥のような言葉が、取引先や社内の空気をじわじわと侵食していく。廊下ですれ違う他部署の連中の視線が痛い。
「ひとみ、顔色が悪いぞ。少し休め」
資料を届けに来た義之が、私の顔を覗き込む。
「休めるわけないじゃない! あの女、仕事で勝てないと思ったら今度は人格攻撃なんて……最低よ。正々堂々と戦えないの!?」
私は握りしめた拳を震わせた。悔しさと情けない思いで、視界がまた滲み始める。
「……すずねの狙いは、お前の心を折ることだ。お前が自滅すれば、プレゼンの席に立つ必要もなくなるからな」
義之は冷静だった。その冷徹なまでの分析が、今の私には少しだけ冷たく感じられた。
「あんたはいいわよね、いつも平気な顔して。……ねえ、昨日の『美玲』って誰よ。あんたにだって、あたしの知らないドロドロした事情があるんじゃないの?」
八つ当たりだとわかっていた。けれど、言わずにはいられなかった。
義之は一瞬、硬い表情を見せたが、すぐに視線を逸らした。
「……今は、自分の仕事に集中しろ。お前の強みは、そんな泥を跳ね返すくらいの『真っ直ぐさ』だろ」
その日の午後、追い打ちをかけるように恵比寿さんから電話が入った。
「生稲さん……。例の噂、私の耳にも入っています。私は信じていませんが、上層部が少し騒がしくてね。……誠に残念ですが、来週の中間ヒアリング、少しだけ席を外していただくことになるかもしれません」
「え……!? 恵比寿さん、そんな!」
「ごめんなさい。これが組織というものです。……君の潔白を証明できる何かがあれば、話は別なのですが」
電話が切れた後、私は力なく椅子に崩れ落ちた。
プレゼンの席から外される。それは営業職にとって、死を意味するのと同じだ。
すずねの狙い通り、私は戦う土俵すら失いかけていた。
「……よしゆき。あたし、もうダメかも」
夜。いつもの公園。
今日はココアを買う元気もなくて、私は冷たいベンチに横たわっていた。
「弱気だな。お前らしくもない」
いつの間にか隣に立っていた義之が、深い溜息をついた。
「だって……仕事も、恵比寿さんの信頼も、全部あいつに盗られて……」
「盗られてない。まだ、お前の手の中にあるだろ」
義之はそう言うと、一枚の封筒を私に差し出した。
「これを使え。うちの企画部が、極秘で進めていたダイコク商事の過去10年の動向データだ。すずねの持っているデータよりも、遥かに精度が高い」
「え……これ、勝手に出していいの? 義之の立場が……」
「いいんだ。お前が負ける姿を見るよりはマシだ」
義之が私の頭を乱暴に撫でる。その手の温かさに、凍りついていた私の心が少しだけ解けた。
その時、義之のジャケットのポケットから、キラリと光るものが落ちた。
それは、古めかしい、けれど重厚な彫金が施された小さな「印章」だった。
「あ……」
私はそれを拾い上げようとして、息を呑んだ。
そこには、見たこともない複雑で高貴な「家紋」が刻まれていた。
「義之、これ……」
「……返せ」
義之は珍しく険しい表情で、私の手からそれを奪い取った。
「それは、俺の『過去』だ。お前には、まだ関係ない」
「関係ないって……! あんた、 shadow。ただのサラリーマンじゃないの? その紋章、普通の家が持ってるようなものじゃないわよ」
義之は答えなかった。ただ、遠くの街灯を見つめる彼の横顔は、いつもの「幼馴染み」ではなく、どこか遠い世界の、誇り高い一族の末裔のような……そんな孤独な影を纏っていた。
「……明日、恵比寿さんに会いに行け。そのデータを持ってな。噂を黙らせるには、圧倒的な『事実』を突きつけるしかない」
義之はそれだけ言うと、夜の闇に消えていった。
封筒の中の資料には、私の知らない「如月家」の強力なネットワークの片鱗が、びっしりと詰まっていた。
私は気づき始めていた。
私のライバルは扇山すずねだけではない。
そして、私が守るべきものは、恵比寿さんへの恋心だけではないのかもしれないということに。
逆襲の準備は整った。
第5話、私は泥だらけのヒールで、再びダイコク商事の門を叩く。
第4話をお読みいただきありがとうございました!
【次回予告】
第5話:反撃のプレリュードと、雨音の告白




