番外編:泥を洗った白百合、パリの空に舞う
1.籠の中の鳥、空を知る
セーヌ川のさざなみが、柔らかな朝の陽光を反射して、アパルトマンの白い壁に揺れる水紋を描いている。
高橋美玲は、お湯の沸く音で目を覚ました。
かつての彼女なら、目覚めと共に家政婦が用意した完璧な朝食と、分刻みのスケジュール、そして「如月家の嫁」に相応しい隙のないメイクアップが待っていたはずだった。
だが、今の彼女の手にあるのは、近所のブーランジェリーで買った少し形の悪いバゲットと、自分で淹れたたっぷりのカフェオレだけだ。
「……ふふ。少し、焦がしてしまいましたわね」
美玲は、指先に残った絵具の汚れも気にせず、不器用に笑った。
父からは「頭を冷やしてこい」と言い渡されたパリ勤務だったが、彼女にとってここは、誰の視線も気にせずに「ただの女の子」に戻れる唯一の聖域となっていた。
彼女がテーブルに広げたのは、かつて親に禁じられ、屋根裏に隠していたスケッチブック。
真っ白な紙の上で、色鉛筆が繊細なダンスを踊る。描かれているのは、パリの街角で見つけた名もなき花。かつて彼女が背負わされていた「華道」の型にはまった美しさではなく、風に吹かれて自由に咲く、命の輝きだった。
2.宿敵からのコール
不意に、スマートフォンのバイブレーションが鳴り響いた。
画面に映る名前は「扇山すずね」。
かつて、豪華客船の上であたしを奈落の底へ突き落とした、恐ろしくも鮮やかな女。
「……はい、高橋です」
『高橋様、お元気? パリはどう? ……あら、少し声が柔らかくなったわね。あの泥棒猫……ひとみさんの影響かしら?』
電話越しでもわかる、すずねの不敵な笑み。
「ええ、パリの食事は美味しいですし、何より……ここには、あたしの失敗を笑う人はいませんもの。……扇山さんこそ、お忙しいのではないかしら?」
『仕事は順調よ。……実は来週から、新しいファッションブランドの立ち上げでパリ出張なの。……ねえ、高橋様。もしお暇なら、あなたのおすすめのレストランで、泥のつかないディナーでもどう?』
「……ふふ。喜んで。お口に合うかわかりませんが、最高の場所を用意しておきますわ」
通話を終えた美玲は、窓辺に置いたスケッチブックに目をやった。
最新のページ。そこには、数日前に日本から届いた「生稲ひとみ・義之」連名の結婚招待状を、美しくコラージュした絵が描かれていた。
「義之さん……ひとみさん。……あなたが、あの方の隣にいてくれて、本当に良かった。……おかげで私は、こうして筆を握ることができましたわ」
3.「自由」という名の虹
三ヶ月後。
パリ中心部、マレ地区にある小さなギャラリー。
そこには、かつての「令嬢・高橋美玲」を知る者が見れば絶句するような、エネルギッシュな色彩の絵が並んでいた。
個展のテーマは『Liberte』。
「やるじゃない、高橋美玲」
ギャラリーの入り口で、サングラスをかけた一際目立つ美女が呟いた。扇山すずねだ。彼女は、一枚の大きな絵の前で足を止めた。
それは、泥だらけの道から空へと伸びる、七色の虹を描いた大作。
「……これ、あの二人のことかしらね」
「いいえ。……私自身のことでございますわ」
背後から声をかけた美玲は、かつてのような純白のスーツではなく、自らペイントを施したデニムのジャケットを羽織っていた。
「あら、サプライズのゲストが他にもいるわよ」
すずねが視線で示した先。
ギャラリーの隅で、絵を一枚一枚、食い入るように見つめる二人の影があった。
「美玲さん! この絵、最高にかっこいいよ!」
「……美玲。いい顔になったな」
ひとみと義之。
新婚旅行を兼ねて、密かにパリまで駆けつけた二人だった。
美玲の瞳から、熱いものがこぼれそうになる。
かつては「憎しみ」と「執着」でしか繋がれなかった彼らが、今は「祝福」という光の中で再会している。
美玲は、溢れそうな涙を拭い、今日一番の、そして人生で最も輝かしい笑顔を浮かべた。
「……来てくださって、本当にありがとうございます。……今日は、私の、新しい人生のスタートの日です。……ひとみさん、あたし……自分だけの《《正義》》、見つけましたわ」
「おめでとう、美玲さん! これからも、負けずに自分の道、描き続けてね!」
ひとみが、美玲の手を強く握りしめた。
パリの春の空に、教会の鐘の音が響き渡る。
泥を払い、自分自身の色を見つけた白百合は、今、《《自由》》という名の風に乗って、どこまでも高く舞い上がっていった。
(美玲・後日談 完)
番外編をお読みいただきありがとうございました!
本編では孤独な戦いを続けていた美玲が、パリの空の下で自分自身の色を見つける後日談でした。ひとみたちとの関係性も、かつての敵から、お互いを認め合える最高の戦友へと変化しています。
物語はもう一編、彼らの未来を描く大切なエピソードへと続きます。
【次回予告】番外編:負けても、勝ちたいものがある 〜扇山すずねの不覚〜




