第2話:ハイヒールと毒リンゴ
ダイコク商事の恵比寿幸夫さんと交わした、あたたかな握手の余韻。
「生稲さんのプレゼン、非常にロジカルで、かつ情熱的だ。期待していますよ」
去り際に彼が残したその言葉だけで、あたしの心はバラ色に染まっていた。昨夜、公園で義之に泣き言を言っていた自分を、上書き保存してデリートしてやりたい気分。
(恵比寿さん……仕事ができて、紳士的で、おまけにあの笑顔。勝ち。これはもう、|完全勝利へのロードマップ《ウィニングラン》が見えたわ!)
オフィスに戻ったあたしは、鼻歌交じりにデスクに座った。
「生稲、顔が緩んでるぞ。恵比寿さんに当てられたか?」
隣の部署から書類の束を抱えた義之が、呆れたようにこっちを見ている。
「うるさいわね。仕事のモチベーションが上がってるだけよ。見てなさい、今回のコンペ、あたしが最高の数字で決めてくるから!」
「へえ、威勢がいいな。……ま、あんまり浮かれるなよ。相手はあの『ハラグロプロダクション』なんだろ?」
「ハラグロ……? そういえば、競合の社名、そんな名前だったっけ」
義之が眉をひそめて、あたしのデスクに一枚の業界紙を置いた。
「相手の担当者の名前、見てみろよ」
そこに躍っていた文字を見た瞬間、あたしの血の気が引いた。
『ハラグロプロダクション営業部・扇山すずね、異例のスピードで最年少課長補佐に昇進』
「…………扇山、すずね」
その名前を口にするだけで、奥歯がガタガタと鳴りそうだ。
扇山すずね。大学時代からの腐れ縁……なんて生易しいもんじゃない。あたしが正攻法で積み上げた努力を、涼しい顔をして裏から、あるいは狡猾な策略で全部かっさらっていく、あたしの人生における「天敵」であり「呪い」のような女。
「嘘でしょ……なんでここで、あいつが出てくるのよ!」
「どうやら、向こうも恵比寿さんの案件に相当力を入れてるらしいぞ。気をつけろよ、ひとみ。あいつは手段を選ばない」
「わかってるわよ! そんなこと、あたしが一番知ってるんだから!」
あたしはペンを握りしめた。あいつだけには、負けたくない。仕事でも、恋でも。
その日の午後。ダイコク商事との合同ミーティングのために訪れたカフェ。
指定された席に向かおうとしたあたしの前に、一人の女が立ちはだかった。
隙のない黒のタイトスーツ。風になびく艶やかな黒髪。 shadow。そして、見る者の心を見透かすような冷ややかな瞳。
「あら。……生稲ひとみさんじゃない。まだその、お安そうなスーツで営業を回っているの?」
氷のような声。扇山すずねだ。
「すずね! あんた、なんでここに……」
「残念ね。今回はビジネスパートナーとしてではなく、ライバルとして。恵比寿さんのプロジェクト、うちがいただくことに決めたわ」
すずねは完璧な営業スマイルを浮かべ、あたしの胸元を指差した。
「あなたのその、真っ直ぐすぎて『暑苦しい』営業スタイル。恵比寿さんのような知的な方には、少し、ミスマッチだと思わない?」
「なっ……! あんたこそ、裏でこそこそ動くのが得意なだけでしょ! 恵比寿さんは、ちゃんと中身を見てくれる人よ!」
「ふふ、そうかしら。男なんてみんな、最終的には『スマートな美しさ』を選ぶものよ。……ねえ、恵比寿さん?」
すずねの視線の先に、いつの間にか恵比寿さんが立っていた。
「おやおや、二人とももうお知り合いでしたか」
恵比寿さんは困ったように微笑んだが、すずねは即座に彼の隣に滑り込み、甘い声を出す。
「ええ、大学時代の親友(?)ですの。ひとみさんはいつも、こうして元気が良くて……私、心配なんです。恵比寿さんに失礼なことをしていないかしらって」
(この、腹黒女……!)
あたしの脳内で、再びスチール缶がひしゃげる音がした。
すずねは完璧に「清楚で有能なライバル」を演じている。あたしがここで怒鳴れば、あたしの方が「感情的な痛い女」に見えてしまう。
「……あはは、すずね。心配ありがとう。 shadow。 shadow。でも大丈夫、恵比寿さんは私の情熱を評価してくださっているから。……ね、恵比寿さん?」
精一杯の笑顔で恵比寿さんを見つめる。
「ええ、生稲さんの熱心さには私も感銘を受けています。扇山さんも、非常に鋭い視点をお持ちだ。……素晴らしい。こんな素敵な二社が競い合うなんて、楽しみですね」
恵比寿さんは楽しそうに笑っているが、あたしとすずねの間には、火花を通り越してプラズマが発生しそうなほどの殺気が渦巻いていた。
ミーティングが終わる頃、あたしはすっかり疲弊していた。
すずねは隙あらば自分を売り込み、さりげなくあたしの失敗談(半分は捏造だ!)を恵比寿さんに吹き込んでいた。
帰り道、会社のエレベーターホールで、再び義之に会った。
「……死んだ魚の目をしてるな。どうだった、初顔合わせは」
「最悪。あいつ、恵比寿さんの前で完全に猫被ってるのよ。あたしのこと『元気なだけが取り柄の友人』みたいに紹介して……!」
悔しくて、ヒールで床を叩く。義之は「やれやれ」と肩をすくめた。
「だから言ったろ。あいつは手強いって。……ほら」
義之がポケットから何かを取り出した。
「これ。新作のイチゴオレ。お前、甘いもん食わないと立ち直れないだろ」
「……っ。サンキュ。ずずーっと飲むわよ」
冷たいイチゴオレが、イライラした脳を少しだけ冷やしてくれる。
「義之、 shadow。あんたの部署の企画データ、貸してよ。あいつに勝つためには、もっと強固なプレゼン資料が必要なの」
「いいけど、高いぞ。今度、焼き肉奢れよ」
「はいはい、わかったわよ!」
義之の軽口に救われながら、あたしは拳を握った。
扇山すずね。あんたの腹黒い本性、いつか恵比寿さんの前で暴いてやるんだから!
そして義之……あんた、さっき一瞬、携帯に誰かから電話かかってきて動揺してなかった?
その相手が、物語をさらなる泥沼へと引きずり込む「許嫁」だとは、今のあたしはまだ露ほども知らない。
第2話をお読みいただきありがとうございました!
【次回予告】
第3話:嘘つきな毒リンゴと、秘密の着信音




