第四章 影を孕む春雷 【2.若灯と火種と刃】
【2.若灯と火種と刃】
数日後。
忠平邸の東の廊を、国豊は文を抱えて小走りに進んでいた。
そのとき――政所から出てきた田原藤太秀郷とぶつかった。
「孺子……汝を、知っているぞ。」
野太い声に、国豊は思わず身をすくめた。
秀郷は国豊をぎょろりと見下ろし、薄く笑った。
「山蔭流…仲正の庶子であろう。汝は各所で有名だからな、嫌でも噂が耳に入る。」
その声音には、ただの侮蔑ではない、もっと古く深い“澱”のようなものが滲んでいた。
――奈良の昔、藤原北家の魚名は、式家の藤原種継と対立し、天武天皇の曾孫・氷上川継の謀反に連座し、左大臣を罷免されて大宰府へ流された。
魚名は途中で病に倒れ、そのまま没した。
のちに桓武天皇の御代に元の名誉は回復されたものの、後嫡の山蔭流の子孫は殿上に侍り、一方、魚名の他の系統は「地下」に沈み、受領・国司として地方に散った。
秀郷の家もまた、その“地下”の流れである。
もちろん国豊は、そんな怨恨など知る由もない。
唯々(ただただ)、あまりに突然で、あまりに怖ろしい秀郷の面妖に驚き、震えた。
だが――この男が自分に向ける悪意だけは、はっきりと感じ取れた。
秀郷の目には、苛立ちと嫉妬が混じっていた。
「卑しい女の腹から生まれた庶子が、何故、忠平卿の屋敷で大きい顔をしている。如何にして宮中に入り込んでおるのだ。」
国豊の胸に、熱いものがこみ上げた。
(なぜ……母を卑しめる……?)
涙がこぼれそうになったが、怒りがそれを押しとどめた。
国豊は、秀郷に、精一杯の罵声を放った。
「我はお前など知らぬ!卑しく下賤なのは、お前の方だ!」
秀郷の顔が歪んだ。
「この孺子め……おのれ、身の程を……」
そのとき。
「何をしている!!!」
鋭い声が廊に響いた。
将門が立っていた。左の瞳が、光を受けてわずかに揺れた。
秀郷の顔が強張る。
「……小次郎将門」
将門は国豊の前に割って入り、立ちはだかって秀郷を見据えた。
「健気な童子を脅かすとは……おのれ、恥を知れ! 武家の面汚しも此処まで極まるとはな。」
秀郷は唇を噛んだ。
「……滝口の小次郎殿には関わりのないこと。」
「あるさ。国豊は、この俺が守ると決めたのさ。」
秀郷の目が怒りで燃えた。
「ほう…孺子を守るために、この我と斬り合うとでも言うか。」
「汝がそのつもりなら構わん。俺は強いぞ。」
秀郷は激高し、太刀に手をかけた。
将門は冷ややかに言った。
「馬鹿か。世話になっている卿の邸で、しかも身を隠している分際で此処で抜く気か。」
秀郷の手が止まった。
秀郷は悔しげに歯噛みし、目を剥いて国豊を睨みつけると、そのまま去っていった。
将門は国豊に振り返り、ふっと笑った。
「気にするな。秀郷は気が短い。」
春の風が吹き、御簾が揺れ、若灯と火種と刃――
三つの運命が、静かに交わり始めていた。
国豊は胸の奥がざわつくのを感じた。




