第191話 変わる彼、変わらぬ彼女 春大会2
「おや、秀明?」
一瞬、樫田を呼んでいる声だと気づかなかった。
その声を聞いて樫田が動きを止めたことで、俺はようやく気が付いた。
呼ばれた方を向くと、そこには腰近くまで髪のある女子が立っていた。
横で小さく樫田が呟く。
「……いたのか、桜井」
「いたのか、とは酷いね。そりゃいるさ」
整った容姿、まるで脳を直接刺激されたかのような透き通る声、大人びた雰囲気に、どこか妖艶さを帯びた彼女を、俺は知っていた。
桜井千秋。樫田と同じ中学出身で、他校の演劇部の部員で昨年度の大会で少し話をした。昨年度の彼女の演技は印象的だったが、覚えている理由はそれだけではない。
一番衝撃的だったのは、樫田の元カノということだ。
ちらりと桜井さんの後ろを見ると、何人かの集まりが見えた。どうやら桜井さんの高校は駅前で集合してからホールへ向かうのだろう。
「悪いが先を急いでいるんだ」
「つれないこと言うなよ。僕たちの中じゃないか」
どこかテンションの低い樫田を柔和な笑顔で逃がさない桜井さん。
俺は完全に蚊帳の外だった。
なぜなら桜井さんの瞳には樫田しか映っていなかった。
「……秀明変わったね。今日はどこか、闘志に満ちている」
「かもな。俺たちはもう高二だ。中学のまんまってわけにはいかない」
「分かっているよ秀明。でもね。僕の中の君は、いつまでも変わらないよ」
桜井さんの言葉に、樫田が無反応だった。
それがただのポーカーフェイスなのか、本当に関心がないのか俺には判断がつかなかった。
そんな樫田を見て、桜井さんは寂しそうに笑う。
「ふふ、ちょっと意地悪だったかな?」
「桜井、俺は――」
「ねぇ秀明。君の劇ちゃんと観るからさ、僕の劇をちゃんと観ててね」
何かを言いかけた樫田を遮って、桜井さんはそんなことを言う。
一瞬、樫田の体が強張ったがその表情はすぐに笑顔になった。
「ああ、分かった。ちゃんと観てるよ」
「……ありがとう秀明」
きっとそれは二人にしか分からないことなのだろう。
樫田の返事に満足したのか、桜井さんは満面の笑みになった。
「じゃあ、行くから。またな桜井」
「うん。またね秀明。それに杉野君も時間取らせてゴメンね」
「ああ、いや……どうも」
急に話を振られて驚く俺。桜井さんはそんなことは気にせずに、後ろにいる集団の方へと戻っていった。
俺たちもホールへと歩き出す。
幾ばくか歩いたところで、樫田が話しかけてきた。
「すまんな。腰を折ったようで」
「んなことないって、樫田こそよかったのか? もっと話さなくて」
「今更、話すこともないさ」
さらっと言う樫田の本心を俺は感じ取れなかった。
もう終わったのに、今になって気まずさを感じてしまう。
そしてそんな自分自身が、どこか恥ずかしかった。
さっきあれだけ相談して、あんだけ背中押してもらったのに俺は樫田のことを分からないのか?
「……いつかさ、話してくれよ」
不意に、そんなことを口にしていた。
樫田が立ち止まり、驚いた顔でこっちを見てきた。
俺は慌てて、弁明する。
「いや、その、なんだ! 今はちょっと色んな事立て込んでいるけどさ! いつか樫田のことも知りたいなって! べ、別に変な意味じゃないぞ! その友達として、仲間として! もし悩みがあるなら聞くし! 後悔してんなら助けになりたいし!」
「ははは! 大丈夫だよ杉野!」
必死な俺が滑稽だったのか、樫田は笑っていた。
俺はさっきとは別に意味で恥ずかしかった。
一しきり笑い終えると樫田はポンっと、俺の肩を叩いた。
「ああ、いつか話さないとな。けど、今は目の前のことだろ?」
「……ああ、そうだな」
再び、歩き出す。
真剣な表情になって、今すべきことを確認する。
「椎名のこともだが、田島や池本のことも忘れてないよな?」
「もちろんだ樫田。ちゃんと気にかけないとな」
「分かっているならいいんだが……」
どこか心配そうな樫田。
まぁ、無理もない。今日中に解決しないといけないことは多い。
だが、だからといってどれかを優先することも、どれかの手を抜くことも俺はしないだろう。
「とにかく、椎名とは話し合うよ」
「頼むぞ」
――――――――――――――
そうこう話していると、すぐに市民会館へと辿り着いた。
いくつかの高校の制服が目に付く。挨拶をしながら周辺を見る。
すると、隅の方に自分たちと同じ制服を着ている人影を見つけた。
池本と椎名だった。
俺たちに気づくと、池本は丁寧にお辞儀する。
椎名は特に反応することなく、ただ黙っていた。
「おはようございます杉野先輩、樫田先輩」
「おはよう池本」
「おはよう、椎名も早いな」
「ええ、ちょっとね……」
樫田の言葉に、椎名は濁すようにそう答えた。
これは、どうしたものだろうか。
椎名と昨日のことを話したいのだが樫田と池本のいる手前、話しかけにくかった。
俺が悩んでいると、椎名と目が合った。
「……杉野」
「その、なんだ……椎名、昨日のことなんだが――」
「止めましょう」
「え……?」
意を決して、話を切り出そうとしたとき椎名が遮った。
椎名は固い表情のまま、俺を真っ直ぐに見てきた。
「昨日はごめんなさい。色々話したいこともあるでしょうけど、今は大会に集中しましょう」
「いや、でも……」
「お願い、杉野」
どこか辛そうにそう言う椎名を見て、俺は何も言えなくなってしまった。
横で池本が何のことか分からないといった顔でこちらを見てくる。
そして、俺が迷っていると樫田が口を開いた。
「それでいいんだな椎名?」
「樫田?」
「事情は来る途中で聞いた。その上で俺から聞くが、それでいいんだな?」
「そうなのね……ええ、私は大丈夫よ」
「分かった。なら、この話は一旦止めよう」
「ちょ、樫田!」
俺が抗議の目を向ける。さっきと言っていること違うだろ!
しかし、樫田は落ち着いた様子だった。
「本人がそういう以上は、仕方ないだろ」
「……」
視界の端にいる池本を見る。おそらくは後輩に心配かけたくないという思いもあるのだろう。
俺は何も言えなかった。それを椎名は同意と受けとったのだろう。
「ありがとう杉野」
嬉しくもない感謝を俺は受け取るしかなかった。
俺は完全に、椎名と話す機会を失ったのだった。




