第190話 覚悟がなくても 春大会1
春大会当日だというのに俺の心は曇っていた。
理由は簡単だ。昨日の別れ際の椎名。あの泣き顔が脳裏から離れなかった。
母親に「あんた、なんて顔してるの……」ってドン引きされながら家を出て、自転車を駐輪場に止めて駅へと辿り着く。
我ながら情けないメンタルだ。
電車に乗って、何も考えずに遠くの風景を見る。
陰鬱とした気分をなんとか平常へと持って行こうとする。
こんな状態では誰とも会うことが出来ない。
すごいスピードで右から左へと動くその風景が止まる。
背中側で人波が動くのを感じた。俺は首だけ動かしてそちらへと視線を送った。
なんとなく予感していたのかもしれない。こういう時、だいたい考えたことは現実にならない。だから、誰とも会いたくない時に限って、誰かと会ってしまう。
「よぉ、杉野おはよう」
「おはよ、樫田……」
「……おいおい、なんて顔してんだお前」
樫田は心配そうに近づいてきた。
誰とも会いたくないから少し早く出たのだったが、それが仇となったようだ。
俺は樫田の方へと体勢を変えた。
「まぁ、ちょっとな……」
「何がちょっとな、だ…………椎名か?」
もはや驚きもしなかった。そりゃ分かるか。
自虐的な笑いが、思わず出てしまった。
「ふ、さすがだな」
「……」
俺の言葉に、樫田は真剣な表情で考え込んだ。
それは演出家としての顔だった。
数秒後、落ち着いた様子で口を開いた。
「とりあえず、話せ。言いにくいとか秘密にしたいとかあるだろうが、四の五の言ってられないのは分かるだろ?」
真っ直ぐに目が合う。その瞳に宿った悲しみが俺を現実へと引き戻した。
会ったのが樫田で良かった。そう思いながら俺は昨日の帰り際のことを話した。
不思議と、いや自然と話しているうちに鬱々としていた気分が消えていった。
ちょっとずつ今日が何の日か、理解していった。
ああ、そうだ。そうだ! 何落ち込んでんだ俺! 今日は本番だろうが!
電車に揺さぶられながら、俺は自分を取り戻していく。
でも、これは気分がゼロに戻ったにすぎない。
「なるほどな……まぁ、難しい話だな」
俺が話し終えると、樫田は頭を抱えてそう言った。
確かに、これは椎名が自分と向き合うことでしか解決できない。だから俺たちがどうにかできる問題では――。
「あー、違う。違うぞ杉野。たぶん今お前が思っていることは違う」
「え?」
「今きっとこの問題は、椎名自身でしか解決できないとか思っただろ。それは合っている。けどな。椎名が感情的になったのはそれが原因じゃない」
じゃあ何が? そんなもん、とっくに気づいていた。
ただその考えから逃げていたのだろう。
樫田はそれを、真正面から言ってきた。
「椎名は、杉野に手を伸ばしてほしかったんだよ」
核心を突かれた。
分かっていたはずの答えを、面と向かって言われた。
なのに、どうしようもなく胸が痛くなった。
「俺は役者じゃないが、それでも杉野が役者として、椎名に言ったことは間違っていないことは分かっている。けどな。きっと椎名は役者としてじゃなくて、杉野自身の言葉を聞きたかったんだと思う……だから、椎名はたぶん」
そこで樫田の言葉が止まった。
気づくと、目的の駅に辿り着いていた。
俺たちは急いで降りる。
「まぁ、百も承知か」
樫田は横にいる俺の顔をちらっと見て、そう結論付けた。
何もかも、見透かされてんな。
誰もいない静かなホームで、俺は弱音を吐く。
「どうしたらいいと思う?」
俺の質問を横目に、樫田はすぐ近くの自販機に小銭を入れ始めた。
そして、こちらを見ずに淡々と言う。
「椎名が望んでいるのは、お前の言葉だ」
「そんなことは分かってる」
「じゃあ、今お前に必要なものを教えてやるよ」
樫田は自販機から缶を取り出すと、俺に投げてきた。
それを右手で受け取る。ひんやりとした冷たさを感じた。
「そろそろ自分の意見を持ったらどうだ? 日和見主義君」
どこか挑発的な笑顔で、樫田は俺を煽った。
二つ目の缶を自販機から取り出すと、樫田はそれを開け一口飲む。
「……分かってんだろ。いつだって、俺に覚悟なんてないこと」
そんな言葉が、口から出ていた。
一番嫌なことをさらっと言われたのが、癇に障ったのかもしれない。
俺は樫田と視線を合わせないように手に持った缶を見る。
「知ってるよ。ゴールデンウィークも、オーディション前も、山路が辞めるって言った時も、いつの話し合いにも杉野に覚悟がなかったことは」
当然だろ、という感じで樫田は俺の言葉に返した。
思わず樫田の方を向くと、今度は呆れた顔で俺を見ていた。
「別に責めてないぞ。それに、覚悟を持てとも言ってない」
「え……?」
「俺はただ、自分の意見を持てって言っただけだ」
「自分の、意見……?」
「そうだ。いつだってお前は、問題を解決しようとして、演劇部みんなでいられるようにしようとて奔走していただろ? でも、今椎名に必要なのはお前の言葉、いや本音だ。覚悟とか決心とかなくてもいい。誰かを奮い立たせる言葉じゃなくてもいい。支離滅裂でも荒唐無稽でもいい。だけど、その場しのぎの言葉じゃダメだ。役者としての言葉じゃダメだ。ここまで来たお前の想いを、しっかりと話してやれ。それがきっと椎名を助けるだろうからな」
そう言うと樫田は俺の持っていた缶に自分の持っている缶を当てた。
カンっと、音が鳴った。
目を覚ますには十分だった。
「樫田。ありがとう」
「おう。マシな顔になったじゃないか」
俺は貰った缶を開けて、一気に飲み干した。
喉を通る冷たさが生きていることを実感させる。
ゼロへと戻った気分が、昂っていく。
缶をごみ箱に捨てると俺は気合十分だった。
「じゃあ、行くか」
「ああ、心配かけた」
俺たちはホームから改札を抜けて、駅前へと出た。
そのまま二人で市民会館へと向かおうとしたときだった。




