スケープゴート
綺麗な満月の夜だった。
差し込む月明かりの眩しさに目を背けるように寝台の上で蹲り、珠希は無知への呵責に涙で瞼を腫らしていた。
今日も今日で甲斐甲斐しく世話を焼かれて何一つ不自由はしなかった。
だからこそ、ここにいる人々の過去に触れた今、彼等の優しさに甘んじることに強い罪悪感を抱かずには居られなかった。
「あまり自分を責めないでね…」
いつも通りの夜の仕度を済ませ、そっと背を擦ったシルルは退出。
遠ざかる足音にそっと顔を上げ、テーブルに残された水差しと明日の着替えにまた涙が溢れた。
「…どうすれば…っ…」
そう言葉を漏らすも答えは見つからない。
きっと今頃キトリアのグラジオ達は己の救出に向け、準備していることだろう。
けれど、ここの人々の内情を知った今、双方が衝突し、傷付け殺し合うことは避けたかった。避けたいのに―――、何も出来ない事が歯痒かった。
一介の庭師に過ぎないことは、自分が一番解っていた。この世界のシナリオの強制力か、今までが上手く行き過ぎていただけだった。
こちらの世界に連れて来られ、結果的に大きな成果を上げてきた分、今の状態が苦しくて堪らなかった。
「…どうしようっ…、どうすれば…っ…」
抱えた膝に顔を埋め、苛立ちからゴンゴンと額をぶつけて打開策を捻り出そうと藻掻いた。
冷静になれ。
考えて。
考えろ。
何か方法がある筈だ。
捻り出せ。
誰も傷付けない方法を―――。
「んなぅ!」
暗礁に乗り上げる頭に、おい!と呼び掛けんばかりに猫の声が響いた。
聞こえた窓辺、月明かりを背負っていたのは真っ白な毛足の長い猫だった。不思議な目の色だった。虹色とでも言うべきか。
何処か不機嫌そうに窓辺から降りた白猫は、軽やかな足取りで珠希に歩み寄り、スンスンと匂いを確認。
刹那、付いて来いとばかりに立てた尻尾を擦り寄せた猫はこっちだとドアを引っ掻いた。
―――この子も魔王の使い魔なのか?
小首を傾げながらも呼び立てに応じ、乱れた髪を手早く簪で纏めて防寒の羽織りを被りながらドアを開く。
暗い廊下。いつもなら立っている筈の見張りの姿がない。
不思議に思いつつも、早く来いと鳴く白猫を珠希は足音密かに追い駆けた。
テトテトと進む猫に導かれて階段を下り、中庭に出た。ナツメヤシの聖樹には精霊蟲の光が灯り、水底の墓石に失礼しますと一礼。見慣れ始めた景色の中、度々渡っている飛び石の上を跳ね、はたと足を止めた。
聖樹への分かれ道、白猫は行っては行けない魔王の住まう塔への道を進んでいた。
「んな〜ぅ!」
早く来いと鳴かれて戸惑った。
恐る恐る足を進め、行ったことのない廃墟へ。
砂に足を取られながら大きな門を潜り、朽ちた回廊を進み、長い螺旋階段を登って行く。
壊れた窓から外を見れば、通ってきた中庭と何処までも続く沙漠を見渡す絶景。
息を呑むほどの光景ながら、夥しい泉の底の墓石の数と魔王城の元である遺跡の大きさを改めて知った。凄惨な歴史をまざまざと見せつけられた。
複雑な思いの中、階段の途中で待つ白猫を再び追い駆ける。
息を切らせて辿り着いた扉の前、半開きの隙間にするりと猫は入って行った。
ゴクリと生唾を呑み、ギイッと鈍い音を立てながら扉を押し開ける。
きっとかつては玉座の間。擦り切れたドレープが不気味に揺れる。
高座の中央、煤けたタペストリーは栄華を誇った国の国旗か君主の紋章か。不気味な黒いシミに塗り潰され八つ裂かれ、最早、何が描かれているのかも分からない。
その前に据えられた豪奢な椅子で、魔王クローヴァルトは気怠げに待ち構えていた。
「…何をしに来た?」
不機嫌な声が唸る。
その存在の威圧感に扉の前で立ち竦んでいたが、珠希は怪訝に眉を潜めた。
「虹色の目の白猫に導かれたので。貴方が呼んだのでは?」
事実のままに答えた。
そう言えば、先程の白猫が見当たらない。
「白猫?………、嗚呼、成程…、アラガーシャめ、また干渉したか…」
忌々しげに呟き、魔王は腰を上げる。
珠希は耳を疑った。
アラガーシャと言えばこの世界の創造神の名だ。と言うことは、さっきの猫は創造神の眷属か―――。
「やはり瘴気にかなりの耐性を持つようだな…。多くはこの臭いにすら耐えられぬが…」
迫った声と影にハッと我に返り、見下ろす視線を見つめ返して平静を装う。
「生憎、石油燃料の臭いには慣れてますので。流石に密室で排ガスを浴び続ければ堪えますが、換気された場でしたらそこまで…」
真顔で告げつつ、かつての世界での苦労が脳裏を過った。
あちらの世界の造園仕事は農業機械操作が必須。草刈りや生け垣の刈り込みは刈払機やヘッジトリマー(農業用バリカン)で行うのが殆どだった。
故にそれらの仕事終わりは刈った草木の青臭さと混合ガソリンの排ガスの臭い、更には自分の汗の臭いで作業着は予洗い必須の悶絶もの。
特にエンジンタイプのヘッジトリマーは、手元に排気口があり、否が応でも排ガスを体に浴びる。毎回刈り込み仕事したその日は一日、鼻にまで臭いがこびり付いてご飯も酒も台無しだった。
「…ならば外で話すとしよう。付いて来い」
端的に告げた魔王はゆらりと踵を返した。
どこに行くのかと思えば、玉座の後ろのタペストリーを払って、その奥に隠れていた通路へ。おずおずと後について行けば屋上へと螺旋階段が続いていた。
「ここならば臭いもマシだろう…」
そう告げた魔王は憂いげに中庭へと目を向け、視線に導かれて景色を見た珠希は息を呑んだ。
無機質な遺跡と山並みのような砂漠の中、楽園のような満天の星空を映す水鏡の泉。
消灯時間で明かりが落ちたことで天も地も星に溢れていた。
「ここならば誰も立ち入ることはない。貴様、聞きたいことがあるのだろう?」
単刀直入な問いに、思わず沈黙した。
何から聞くべきか悩んだ。
何となく精霊フェニシスからの頼みをそのまま伝えるのも憚られた。
「………、あの泉の墓石はニンファエアの民ですか?」
考えた末の最初がそれだった。
刹那、魔王クローヴァルトは口元を歪め、悲痛な目をした。
「そうだ…。彼等が潤した緑はもうここしか残っておらん。大陸南部に広がっていたジャングルもサバンナも…、全て移民共が穢した。故にこの手で無に帰した…。このオアシスも貴様らの富の糧にされるくらいならば、いっそ無くすまでだ」
恨みの籠もった返答だった。
慰めの言葉は無意味だろう。
だからその場に跪き、手を合わせて冥福の祈りを捧げた。
「何のつもりだ?」
忌々しげに問われた。
「亡くなった方を偲ぶのに理由が必要ですか?尤も遺族や親しかった方からお前に祈られたくないと言われれば、祈る資格はありませんが…」
皮肉を込めながら答え、徐に腰を上げた。
遠回しは悪手だと悟った。
「精霊フェニシス様から貴方を救ってほしいと頼まれました。教えてください。貴方が世界を脅かす目的は何なのですか?復讐?それとも…」
腹を括り、拳を握って問い質す珠希に、魔王は愚問だとばかりに鼻で嗤った。
「深い意味はない。純粋なる復讐だ。ただ穏やかに暮らしていただけのニンファエアの民を土地欲しさに虐殺し、資源欲しさに彼等が懸命に育てた森を切り開き、自らの国の発展の為と大地を穢し…、その挙句に彼等の骸を踏みつけ、遂には忘れ去る者共が支配するこんな世界など存在する価値もない。安心するが良い。貴様が死ぬのは仕上げの時だ。シレネと同じ苦痛の果てに…。あの者の眼前で貴様の首を刎ね、我と同じ絶望を味合わせてやるわ…!」
その声色は怒りと憎しみに満ちていた。
しかし、台詞じみてもいた。
だから確信した。
「…そうやってずっと悪役を演じてきたのですか?」
思っても見なかった問いだったらしい。
振り向いたクローヴァルトは、微かに怯えたような目をしていた。
「ここに来てからずっと考えていました。どうしてあの時、貴方が私を殺さなかったのか…。貴方にとって聖樹の治し方を知ってる私は邪魔でしかない。なら、あの時の不意打ちで私を殺してグラジオ様にその様を見せつければ良かった。そうすればグラジオ様を精神的に追い詰め、憑依も楽だった筈…。それをしなかったのは私を殺す必要がなかったから。寧ろ、殺したくないと…」
そう言い掛けた瞬間、魔王は黙れとばかりに珠希の首に掴み掛かった。
「妄言も大概にせよ…、貴様など…!」
牙を剥き、言葉を封じんと細い首を絞める。
お前など簡単に縊り殺せる―――。
そう示す魔王だったが、珠希は恐れなかった。寧ろ哀れみの目を向け、そっと揺らぐ拳を宥めんと手を添えた。
「生憎だけど、前の世界で色々経験したから本気かどうか分かるの。魔王クローヴァルト、貴方はこの世界の憎まれ役…スケープゴートなんですね?」
核心を突く問いだった。
刹那、口元を歪めたクローヴァルトは涙を堪えるかのように額を押さえて高笑い。
静寂の夜空に響く声は、その深き嘆きを体現していた。
「ハハッ…、そこまで見抜いていたのか…!素晴らしい…!そう、これが本来の我の役割だ。闇の化身として世界を脅かし、己に敵意を向けさせる悪の権化、魔王という役目…。アラガーシャにとって闇の精霊王は悪役でなければならないのだよ…。だからこそ、ニンファエアは滅ぼされた。私を良きものとして敬ったからだ…。今この大地に暮らす者共もいずれニンファエアと同じ轍を踏むだろう…。それがこの世界のルールだ」
一頻り嗤い飛ばし、クローヴァルトは哀しみを湛えた笑みを浮かべる。
この世界のシナリオの真実を悟ってはいたが、その残酷さに珠希は沈黙を強いられた。
押し付けられた悪役に定められた惨劇。
この世界を創ったやつに―――、アラガーシャとやらに良心と言うものは無いのか。
元はゲームとは言え、こんな理不尽はあまりにも―――。
「見ているのだろう?サラマンダリア」
唐突な問い掛けにドキリとした。
こちらを見据える視線に居場所がバレている事を察し、珠希は思わず後退った。
瞬間、沈黙を続けていた簪が光を放ち、小鳥姿のサラマンダリアが出現。珠希を護るように魔王との間に割って入った。
『…やっぱり気付いてたのね。何の用かしら?』
腹を括ったようにサラマンダリアは訊ねる。
その問いにクローヴァルトは怒りを放つように瘴気を溢れさせた。
「人族どもに伝えろ。ヴォタニカリアの聖女はこの魔王が預かっている。取り返したくば不帰の大地に来るが良い。我はいつでもお前達を待っているとな…!」
そう述べた直後だった。
クローヴァルトが翳した手をギュッと握り、パンッと朱の羽根が弾ける。
抵抗の余地もなかった。
火の粉となって消えていくサラマンダリアに珠希は戦慄のあまり言葉を失い、只々打ち震えた。
「これで舞台は整った。このふざけた世界の終焉劇を始めるとしよう…!」
まるで舞台の幕開けを告げるように、魔王は槍を召喚し、天高く振り上げる。
瞬間、満天の星空は不気味な紅き魔法陣に覆い尽くされ、要塞を取り囲んでいた野営地にはそれぞれ転移の門が開かれた。
「異世界の乙女よ、刮目するが良い。貴様が愛した男の皮がこの世界を滅ぼす様をな…!」
捨て台詞を残し、不敵に微笑んだクローヴァルトは立ち竦む珠希の真横を通り過ぎ、玉座へと舞い戻る。
―――ついに魔王戦が始まってしまった。
絶望に座り込んだ彼女は唯、灰となったサラマンダリアの羽を抱きしめることしか出来なかった。




