ヤニ取り
それはヒマラヤスギの仲間の剪定を始めて七日目、聖樹に深い影を落としていた高木の最後の一本を切り終えた午後の事であった。
「あー、やっぱり上手く取れないね…」
ドロドロになったウエスを片手に、愛用の剪定鋏にこびり付いた汚れに顔を顰める。
ヒマラヤスギに限らず針葉樹の仲間はヤニが多く、各道具の刃がギタギタになりやすい。仕事終わりに取ってしまわないとこびり付いて切れ味を落とすので、手入れはいつも以上に念入りだ。
こんな時、とても役に立つのが現代の文明の利器であるが―――、只今、彼女がいるのは中世ヨーロッパに似た異世界である。
元の世界の職場からちゃっかり借りパクしたヤニ取り用スプレーを今程、ノコギリの手入れ中にとうとう使い切ってしまった。
内容的には漂白剤に似ているがこの世界には存在しない化学薬品である。
今後も必要になるし、世の中的にもあると便利なので宮廷魔導師やその手の錬金術師とやらに類似品が作れないか相談して中身の薬剤も参考には渡したが、まだ完成には時間が掛かりそうである。
「御免下さ〜い」
片付けを終えて、今後の段取りを組み終えた夜八時過ぎ。
早々に着替えと夕飯を済ませた珠希は、夕餉の片付けを終えて少し落ち着いた王宮の厨房へと出向いた。
「まあ!聖女様!?」
貴人達の食事の残り物で賄いにありついていたキッチンメイド達は驚きの様子。
まだタイミングが悪かったと反省しつつ、会釈で挨拶した。
「お食事時にごめんなさい。あの、唐突で恐縮なんですが、要らない鍋ってあります?あと、竈の灰も少し貰えると嬉しいのですが…」
珠希は苦笑いで、何をしたいか示すように手に持った腰道具を指し示す。
そんな彼女の問いに対し、一斉に疑問符が彼等の頭上に浮かんだ。
*****
翌日、聖園の片隅にメイド達の人だかりができていた。
彼女らの手にはバケツや籠が抱えられ、ザルを持つ者もいた。
「それじゃ、宜しくお願いしま〜す!」
気楽な挨拶から始まり、いつもの仕事着の珠希は赤い実を付けるモシャモシャの樹に登り始める。
テキパキと剪定を進めながら、しかし、いつもと違って切った枝を一つ一つメイド達へ。
皆、気分は収穫である。
「わー、凄い量…、何かごめん…」
敷物の上に山のように積み上がった枝の量に珠希は苦笑い。
昨日、剪定で付いたヤニが上手く取り切れなかった事から、今日の剪定は汚れ覚悟のヤマモモの近縁種。
元の世界で相手にしてきたヤマモモの結実時期はもう少し後であるが、この世界のものは少々時期が異なるらしい。すっかり熟れて切ってる側から落ちて潰れて何処もかしこも甘い汁だらけ。道具どころか全身ベタベタである。
「聖女様、準備完了ですわ!」
そんな声がけに頷いて、取り敢えず顔と手の汚れだけを頭の手拭いで拭き取り、気を取り直して準備してもらった即席の竈へ。
聖園に転がっていた石や煉瓦で拵えてもらったものだ。
既にお湯の沸いていた古びた鍋に、使った鋏と柄から外したノコギリの刃を投入し、洗剤代わりに灰も少々。
熱し過ぎない程度に、菜箸代わりに拾っておいた二本の枝で鍋から道具を上げてはウエスで汚れを拭き取り、また鍋に戻すことを繰り返した。
「あの〜…、聖女様?何をされて?」
そんな背後からの声にギクリ。
汚れ落としに夢中になっていて気付かなかったが、ローレン王子が複雑そうな顔で頭上に疑問符を浮かべていた。
近頃フラベールの一件で忙しかった王子とは、すっかり顔を合わせていなかったが、その多忙さを示すように目には隈。酷く疲れた顔をしていた。
「あー、すみません。ヤニ取りです。消毒も兼ねて。煮沸すれば大体のバイ菌は死にますし、汚れも落ちます。まあ、よく乾燥させないとサビの原因になるので、今日みたいに天気の良い日でないと出来ないですけどね」
気不味い空気の中で淡々と答え、茹でた鋏やノコギリを抓み出して刃の状態を確認。
絵面が奇天烈なのは分かっているが、しかし、便利なクリーナーが品切れなので堪忍願いたい。
直火でやると刃が鈍るし、アルコールで拭くにはギタギタ過ぎる。そもそもそんな純度の高い酒類も無い。
まあ、この手法も紙一重ではあるが―――。
「…チョップスティックの使い方がお上手ですね?」
「あー、元いた国が箸の文化だったので…」
言葉を濁しつつ、適当な石の上に汚れ落としの終わった道具を並べて天日干し。
休む間もなく珠希はお役御免となった竈から燻る薪を取り出し、お湯の残る古びた鍋の中へ。確実に火種を消し、竈を崩して使った石や煉瓦を元に戻して原状回復。燃えカスもしっかり後始末した。
その間、メイド達は切った枝からせっせと実を取り、珠希も道具が乾くのを待ちながら、剪定後の掃除や実を取り終わった枝の片付けに当たった。
「わわっ、やっぱ凄いや」
道具が乾いて仕上げの油差しをする中、宮殿のキッチンへと運ばれ行く実の量に珠希は引き攣り笑い。
剪定した株が随分と大きかったとは言え、寸胴鍋で三杯分に相当した。
実の採り終わった枝は合流した農夫達が粉砕して腐葉土化。
その傍らで珠希も手早く道具の片付けを済ませて実の運搬を手伝った。
*****
沢山のヤマモモの実でキッチンは甘い香りと鮮やかな赤い色に包まれていた。
大きなシンクで流水に洗われ、埃や汚れを落とした実はザルに上げられ、丁寧な仕分け作業を経て半分以上がお砂糖たっぷりの大鍋へ。
ゆっくりじっくり焦がさないように火に掛けて煮詰めてアクを取り、出てきた種を丁寧に取り除く。
そうして出来た真紅の素敵な甘みはお玉に掬われ、事前に煮沸消毒しておいた瓶に注がれた。
その傍ら、残りの傷のない実は同じく煮沸消毒した大きな瓶へと納められ、隙間を満たすように、レモン汁と粗製糖と湧き水で手作りしたシロップが注がれる。
最後にコルクの蓋をしたら、仕込みは完了である。
「上手く行きますよ〜に〜!」
パントリーに仕舞われる大きな瓶にメイド達と共に手を合わせ、珠希は無事な完成を願う。
腐らず上手く行けば、液糖漬けの完成だ。
「よし、鍋洗いついでにおやつだ!」
仕込みを終えた珠希はルンルンで、洗わず置いておいてもらったジャムの煮鍋へ。
そこに直接、小麦粉に卵と牛乳を加えて、ヤマモモ風味の生地を混ぜる。
あとはバターを塗ったフライパンで焼けば薄ピンクが可愛いホットケーキの完成である。
「キレー!」
「美味しそー!」
出来上がったおやつにメイド達から黄色い悲鳴が上がる。
お皿に乗せたら、出来立てのジャムの味見がてら皆でティータイムだ。
「「「いただきまーす!」」」
手を合わせ、皆で食事のご挨拶。
最初は珠希が無意識にやっていただけであったが、いつの間にかメイド達に広まって、気付けば皆やるようになった。
「それに煮沸消毒なんて、思いつきませんでした…!」
「あちらの世界は凄いわ…!」
「石鹸なんて高くてねぇ!」
感心の様子でメイド達は口々に褒め称える。
この世界では魔法が使える分、まだ衛生の概念がイマイチ。見える汚れは洗い流して落とすものの元の世界のような合成洗剤も無いため、瓶詰めでも頻繁にカビさせていたらしい。
「それにコーディアルの作り方までご存じなんて!」
「ほんとに聖女様は博識ですね!」
彼等はまだまだ褒め称えるが、珠希は段々と渋い顔に。
「あー、若い頃にお菓子作りにハマったりもしましたから…」
微かに言葉を濁したのには訳がある。
そう、あれは高校時代―――、剪定の授業で切らせてもらったヤマモモの実をクラスメイトと興味本位で瓶に集め、先生に許可を得た上で職員室の戸棚で氷砂糖と漬け込んでいた事があった。
農業高校と言う特殊校故か先生達もノリが良く、放課後に近場のスーパーで炭酸水と氷を買って来ては、クラブ活動の傍ら皆で割って飲んだりしていた。
ここまでは良い思い出だった。
だが夏休みが終わったある日、事件が起きた。
瓶を開けた瞬間、臭った異臭。
しかし若さ故の無知は恐れを知らず。勿体無いとの精神が働いた。
そして、飲んだ全員が吹き出した。
これぞ自然発酵。
まずとして全員がそれは自身らがまだ飲んではならぬ禁断の味だと気付いた。そして、その味を知っている事に先生の目が変わった。
―――お前達、飲んだことあるな?
まだ十七の出来事。その後こってり叱られたのは言うまでもないが、保護者にチクられなかったのは先生の温情である。
無論、その禁断のシロップは先生の手により畑の肥やしとして処分された。
「それに聖女様はお酒も強くて…!」
次に飛び出た言葉が追想した内容にフィットし過ぎで、口に入れたホットケーキがあらぬ所に入り、堪らず噎せ返った。
なんせ、彼女は酒飲み歴十数年。父のウイスキーボトルを拝借し、普通に未成年飲酒でお縄になり兼ねない事をしていた。
「…ま、前の職場では飲み会も適度にありましたから〜…」
急いで水で詰まった喉を流し、目を逸らしつつ勝手に開いてしまった記憶の引き出しを締めまくる。
召喚された時から思っていたが、我ながら聖女と呼ばれるにはあまりにも俗物である。
―――ボロが出る前に所作を直そう。
今時点で唯でさえ人気と信頼が鰻登りで、羨望の眼差しは熱くなる一方だ。
何か粗相をした時、彼等の失望の大きさを思うと心が痛い。
聖女と言う肩書きに見合うよう、聖園の管理清掃が一段落したら、こちらでの礼儀作法を習うべく教師を手配してもらおうと珠希は密かに決意した。




