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嘆きの涙


 気絶していたことに気付いてカッと見開いた瞼の向こうに見えたのは、幼少期に度々世話になったキトリア皇宮医務室の天井だった。

 途端に襲ってきた全身の激痛に顔を歪め、寝台の上で死にかけの蜂のように蹲る。包帯で巻かれた両腕には血が滲み、溢れた呻き声に神官や看護師が駆けつけるも痛みを和らげるのが精一杯。歯を食いしばり、痛みに耐えるしか無かった。


『あらら〜、あと一週間は気絶してれば良かったのに…』


 賢明な治療が続く中、飄々と現れた火の精霊王サラマンダリアは呆れ顔。

 丈夫が過ぎるのも良し悪しだとボヤきながら脂汗滲む額に触れれば、途端に痛みが引き、更には瘴気に爛れた皮膚も時を戻すように見る見る癒え始めた。


『…あーあ、流石にここまでやるとペナルティもんか…、ま、クロちゃんシメるには君と勇者君しか居ないからね』


 そう諦め気味に溜息を零すサラマンダリアに、場に居合わせた者はざわめいた。

 あっけらかんとしているその身が光の粒子となって崩れ、体が明らかに透けた為である。

 精霊は原則、この世界の管理者であり監視者でもあり、特に森羅万象の権化たる原初精霊―――精霊王は直接、国や個人の生活に介入することはしてはならない。

 それはこの世界が形造られた時に神と呼ばれる存在により定められた掟であり、彼等が生物の超越者であるが故の制約だった。


『大丈夫大丈夫、このくらいなら暫く大人しくすれば消滅はしないわ。それにアラガーシャはグラちゃんと勇者君には甘いみたいだし…』


 魂まで崩壊せぬよう身体を子供のように小さくしつつ、サラマンダリアは動揺する皆へと告げた。

 彼等が恐れるのも無理は無い。かつて闇の原初精霊であったクローヴァルトは文明不介入の掟を破り、私情で砂漠にあった大国を滅ぼした。結果、彼の魂は瘴気に穢れ、原初精霊の権能はおろか精霊として魔力を生む力さえも失った。恨みと憎しみの果てに、大地を穢す存在と成り果てたのだ。

 火を司り光の権化でもあるサラマンダリアまでそうなっては、この世界は一溜まりもないだろう。


「…サラっ…マン…ダリア…様…っ…、珠希…は…っ…」


 小さくなった精霊王の手首を縋るように掴み、グラジオは眩む意識の中で懸命に最愛の人の安否を訊ねる。

 その目は母を見失った幼子のように怯えていた。


『大丈夫。あの子の側には分身体を付けたわ。何かあれば守りに入る。今は傷を治すことを優先なさい…』


 安心させる為に言ったつもりだった。

 けれど、それを聞いた途端グラジオは絶望に目を見開くや歯を食いしばり、身体を捩って寝台を抜け出さんと身体を起こした。

 当然、神官や医師、看護師は慌てふためいた。表面上の傷は癒えたとは言え、多量の瘴気の毒に犯され、当面は絶対安静が必要な身体だった。


「…珠希…っ…!…行かせてくれ…っ…彼女が…っ…、…珠希っ…、…珠希がっ…!」


 常人ならば起き上がることも困難な状況の筈なのに、グラジオは止めようとする医師や神官を振り払い、出口へと躙り寄る。


「グラジオ殿下!落ち着いてっ!」

「誰か鎮静剤を!」

『グラちゃん!駄目!待って待って!』

「殿下っ!駄目です戻って!」

「おい、応援呼んで来い!」


 無意識に魔法を使われ振り払われ、近付くことも拒む彼の暴走に医務室は騒然。

 丁度、彼の意識回復の報に駆け付けたガザーニア帝やアイヴィス皇太子は、その光景に言葉を失った。


「…珠…希…、…珠希…っ…!」


 狂ったようにその名を呼びながら、グラジオは尚も足を進める。

 刹那、覚束無い足が縺れて盛大に床に倒れ込んだ。

 打ち付けた腕と膝からジンジンと痛みが伝わり、それに引き付けられて涙が溢れた。

 情けなかった。

 絶望の一言に尽きた。

 護ってやる筈だった。

 護ってやれる場所にいた筈だった。

 それなのに、見す見す彼女を奪われた。

 呆気なく返り討ちにされた。

 今頃、彼女がどんな目に遭っているのか想像するだけで背筋が凍り、心臓が張り裂けそうだった。


「グラジオ…!」


 その場に蹲り嗚咽を漏らす彼に、ガザーニア帝は堪らず駆け寄った。

 後悔に握り締めた掌からは血が滲み、擦った背は最愛を奪われた哀しみに打ち震えていた。


「落ち着け、グラジオ…。魔王が藤崎女史を殺す気だったなら、あの場で殺されていた筈だ。案ずるな、あの者はそう易易と殺られるような娘ではなかろう…、希望を捨てるな…」


 穏やかな声色で諭しながら、グラジオを胸に抱き寄せる。

 傷心のあまり彼がその胸に縋る中、背後からそっと歩み寄ったアイヴィス皇太子は、項垂れる頭へと手を翳して眠りの魔法を発動。途端に力を失ったグラジオの手はするりと床に転がり、その目元からは一筋の涙が頬へと零れ落ちた。


「…また錯乱するとも限らん。皇室の部屋を開けて構わんから隔離せよ。自死に走らぬよう監視を怠るな」


 淡々と指示を出しながら持ってこられた担架へと彼を横たえる。

 涙に濡れたその疲れた表情に、ガザーニア帝は涙を禁じ得なかった。


『…悪いけどアタシも暫く休むわ。グラちゃん、死なせないでね』


 グラジオが別室へと運ばれていく中、疲れた様子で言い残したサラマンダリアは小振りな火の鳥に変身。

 パッと翼を撃って窓辺から飛び出した火の精霊王はよく晴れた初春の空へと消えて行った。

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