粉雪舞う晩
有り難いことに次の宿場町は温泉郷だった。筋肉痛の腕を解しつつ、ゆったりとお湯に浸かって冷えた指先を労った。
三十路近くなってから各所のお肌のトラブルは僅かに残る乙女心にとって大きな悩みの種。特に仕事柄、冬場は手指のアカギレが次から次に割れまくりで液体絆創膏が手放せない程。こうして荒れた働き者の手を労れるのは有り難いものだ。
「ん〜、久々の湯船は格別だわ〜」
客室へと戻って髪の乾燥も適当に、風呂上がりの一杯として用意されていたミルクティーを堪能。
本当はよく冷えたビールかチューハイが欲しいところだが我儘は言えない。尚且つ明日にはロマーノ皇都に到着する。しっかり体調を整えて仕事に集中出来るようにせねばならない。
(それにしても昼間の皇国の人、様相からして明治大正っぽかったな…。こっちの世界の日本は近代なのか…)
飲み終えたティーカップを片付けつつ、珠希は昼間に見かけた皇国人を思い出した。
羽織袴とは最早懐かしくさえある。自身も人並みに七五三をやったし、季節の折には浴衣を着て、成人式には振り袖を纏い、両親と兄と一緒に写真を取り、ちょっと良いお店でお祝いをしてもらった身だ。
「…ドレス姿、見せてあげたかったな」
明日に向けて皺にならないように一張羅を壁のハンガーに掛けながら、胸に溢れた郷愁に溜息。
元の世界にいた時には着ることなんて無いと思っていた上等なドレス。機会があっても精々自分の結婚式くらいだった。
それが今では―――。
「…いかん。現実を見るな」
腹の底に渦を巻き出す淋しさに、パチンと頬をひと叩き。
もう戻れないかつての世界に想いを向けては足が竦んでしまう。今は立ち止まっている場合ではない。
よし、寝よう―――。
そう己に言い聞かせて蝋燭を消して毛布に潜ろうとした時だった。
躊躇いがちなノックが聞こえた。
誰だろうかと小首を傾げつつドアを開けてみれば、グラジオが佇んでいた。
「グラジオ様…!どうされたんです?」
神妙な顔の彼に何かトラブルかと緊張が走る。
しかし、こちらを見て何処かホッとしたように溜息を吐く彼に、すぐに大したことでは無いと察した。
「すみません、少しお時間を頂けませんか?」
何だかバツの悪そうな問い掛けに、珠希はキョトンとしながらもコクリと頷いた。
あまりの静かさに窓の外を見てみれば、粉雪が舞っていた。
明かりと暖を取る為に珠希は暖炉に新しい薪を焚べ、その横からグラジオが火種を投げ込むようにパチンと指を鳴らす。途端に手品みたいに火花が散って見る見る部屋が明るくなった。
「それで、どうされたんです?こんな時間に訪ねてらっしゃるなんて…」
あまり手間取らせてはいけないと訪問の理由を単刀直入に訊ねた。
自分で部屋に招き入れておいてだが、あまり長居しては良からぬ噂も立つだろう。
テーブルのティーセットに残る茶葉を確認して、一杯分だけ火の魔法が掛けられたポットに水差しから水を注いだ。少量ならものの一分でお湯が沸く優れものだ。
「一つ…、お渡ししたいものがありましてっ…」
少しばかり口籠りながら、彼は内ポケットに手を差し入れる。
取り出したのは昼間の事故現場にて樒から買った簪だった。
「簪…?」
「昼間の事故処理の折に、皇国の商人から買ったものです」
淡々とそう答え、グラジオは徐に珠希に手を伸ばす。
何だ何だと戸惑う彼女の髪に触れ、垂れる長髪を耳に掛けた。そして花を挿すようにそこに簪を掛けてみせた。
「…こう…ですかね?」
小首を傾げ、何か変?とばかりに顔を顰める。
何だか不器用な彼に、珠希はクスリと笑って一旦耳元に差し込まれた簪を手に取った。
「これ、お団子とか髪を結ってから髪に差し込むんですよ。長ければ、そのまま髪留めにもなりますし」
使い方を説明しつつ、腕にしていた草臥れたヘアゴムで手早く髪を団子に。そこに簪を差し込んで見せた。
「ほら、こんな感じです。私の元いた国では昔、頻繁に髪が洗えなかったから、これで頭を掻いたり飾りなだけはじゃなくて道具としても…」
身体を捻って頭を振って、トンボ玉を揺らしてみせる。
そんな折だった。
不意に項を指先で撫でられ吃驚。思わず硬直した。
「ぐ、グラジオ様…?」
ゆっくりと振り返り、驚きのあまりゾワつく項を擦る。
「…すみません。襟足が魅力的でつい…」
照れ隠しにはにかみ、さり気なく珠希の赤らめた頬に触れるのは、隠し切れぬ恋慕の現れ。
燃える薪がパチンと爆ぜ、その音が嫌に部屋に響いた。
「あの、グラジオ様っ…、昼間の時もそうでしたが…、あまり誂わないで頂けると…、反応に困ると言いますか…」
火照る顔を隠さんと簪を抜いて団子を解き、伸びた髪を手櫛で寄せる。
こちらに来てからすっかり切りそびれた髪は今では肩を越えてしまった。次の夏までにはバッサリ切りたいと思っていたが―――。
「それは失礼…。本当は急かすつもりはなかったのですが…」
困ったように肩を竦め、グラジオは珠希の手を取りながらその場に跪く。
そして、またも指先へと口付けを落とした。
「やはり、そろそろお返事を頂けませんか?あまり焦らされると本当に魔王になってしまいそうで…」
そんな誂い混じりに見つめる熱い視線。
言っては悪いが、この意地悪さは既に魔王に片足を突っ込んでいる。
何だ、好きな子ほど虐めたくなるとか言う心理か?そもそも、この人はそう言う趣向タイプなのか?
色々と考え倦ねた結果、珠希は諦めたように溜息。静かに着け焼き刃のカーテシーの所作を取った。
「………、謹んでお受けします」
出来る限りの誠意として。
こういう時、どう答えるのが正解なのか、知らなくて。分からなくて。
だから、それっぽく。
何かで読んだロマンス小説の真似をした。
すると、グラジオは意地悪そうに微笑んで、物思いに顎に伸び始めた無精髭を擦った。
「つまりは私の妃になってくださると?」
「なっ…!えっ、え?ご、ごめんなさい、え?ごめんなさいね、今の仕草ってそう言う返事になっちゃうのっ?」
彼からの斜め上の確認に、珠希は大混乱。
怒ろうとしたけれど、一旦、自問自答。またもこちらの知識認識不足か?それとも単に誂われた?借りたマナー本には何て書いてあった?―――。
あまりの慌てふためき方に、グラジオは耐え兼ねたように失笑。それで、また誂われたと気付いて、珠希は恥ずかしさのあまり剝れて怒りを露わにした。
「グラジオ様っ!!」
思わず大声を上げ、物言いだけに唇を震わせる。
本当は色々言ってやりたいけれど相手は王子様で騎士団長で、要は貴人。下手な事は言えず、悔しさに両拳を握って口籠った。
そんな彼女にグラジオは可怪しいやら可愛いやらで肩を震わせ、ごめんごめんとばかりに手を合わせて一呼吸。
改まったように背筋を伸ばして穏やかに微笑むや、一歩踏み込んで捕らえるように珠希を抱き締めた。
すっぽりと彼の腕の中に閉じ込められ、珠希はまたも硬直。鍛え抜かれた逞しい胸板と筋肉質ながら割れ物を壊さぬように気を配る優しい手付きの腕。そこから香る上品な男物の香水とそれに隠れた彼自身の匂い。
リアルな男の人の温もりに包まれて、彼女は俄に頬を赤らめた。
「…では、手始めに名前で呼んでも?」
そっと腕の力を緩めて、グラジオは長髪に隠れた頬に触れ、その恥じらいを暴き見る。
熟れた果実のように珠希の顔には紅が差し、じわりと熱を放っていた。
「その…、二人だけの時でしたら…問題ないかとっ…」
目を泳がせ、彼女は承諾。
―――嗚呼、いっそこのまま彼女の全てを暴いてしまいたい。
戸惑い恥じらう姿に中々獰猛な衝動に駆られながらも、しかし、理性で雄の本能を捻じ伏せた。
「分かりました。言質は取りましたよ?」
微笑む声でそう彼が念押しした直後だった。
俯きに垂れ掛かった黒髪を払い、屈んで寄せられた唇が恥じらう額へと触れる。伏せ気味の睫毛に掛かる吐息は熱を帯び、刹那見つめた榛色は幸せそうに笑っていた。
「おやすみなさい、珠希さん…」
耳元で囁かれた挨拶は、初心な乙女心を茹で上げるには少々火力が強過ぎた。




