常闇の王
何処までも広がる沙漠の中、かつて栄華を誇った国の骸がある。今となっては岩と礫の山。しかし、僅かに残る形は確かに宮殿だった。
砂に埋れた大門を過ぎ、朽ちた回廊を進む。長い階段を登っていき、沙漠を見渡すように聳え立つ本丸のその最奥には玉座があった。
擦り切れたドレープが不気味にたなびく高座の中央、煤けたタペストリーの前に据えられた豪奢な金の椅子に座し、物思いに頬杖を突きながら微睡むは鎧を纏った一人の偉丈夫。けれど、その額には漆黒の六つの目が並ぶ。
人は彼を魔王と呼ぶ。
その身より常に滲み出る瘴気は只人ならば近寄ることも困難。その身に触れれば忽ち皮膚は爛れ崩れ落ちる。故に鹵獲した名のある武将の鎧を身に付け、鋼の皮とした。
「クローヴァルト様」
猫撫で声の呼びかけに、魔王は気怠げに人族に似せた片方の瞼を開く。
恭しく頭を垂れるその姿は半身こそ女人なれど、腰より下はよく肥えた蛾の腹をしていた。
「…ディジタリアか。相変わらずだな」
姿勢を直し、魔王は嗤った。
久しく会うこの臣下は、己の真の姿が醜いとばかりに人の皮を取っ替え引っ替え奪ってはその人格までもを纏い、皮の人物へと成り変わる。そうして影を這うように権力者に擦り寄り、数ある国を滅ぼしてきた。
「はい、陛下。ご報告に参りました」
そう答え、ディジタリアは醜さがはみ出るドレスの裾を摘んだ。
近頃の彼女は北の帝国ロマーノに留まり大義を成さんとしていた。
「…ロザリアンヌの件だな?」
「はい、陛下。お授け頂いた呪物により、順調に精霊ロザリアンヌは衰弱しております。加えて、未だに誰も私が国の中枢へと忍び込んでいる事には気付いておりません」
「そうか。それは重畳。しかし、今のお主は…」
「嗚呼、ご安心くださいませ!私の魔法に適う猛者など今のロマーノにはおりませんわ!代わりならいくらでも…!」
心配の色を見せた魔王にディジタリアは胸に手を当て、お任せあれと微笑む。
その様子に魔王は頬杖を突き直し、愉快そうに笑った。
「…そうだな…、キトリアの獅子帝やヴォタニカリアのアカンサスでもなければ、お前の正体を見破ることはおろか斃すことなど出来まい…」
「ええ、そうですとも…!私は陛下の胡蝶、三貴将のディジタリアですもの…!」
偉ぶる幼子のようにそう述べるディジタリアは実に誇らしげ。
そんな配下に魔王は鼻で笑った。
「生憎だが、我は妃など取らんぞ?」
「あら、つれないこと…!私なら貴方様に触れることも叶いますのに…!」
素っ気ないと肩を竦め、のそのそと歩み寄ったディジタリアは恍惚の眼差しで主君の手を取り、甘えるように楔帷子に阻まれた指先へと頬擦り。
「はっ、阿呆を抜かせ。お主の鉤爪で抱かれては、唯でさえ壊れかけのこの器が完全に崩れるわ…!」
そう言い捨て、クローヴァルトは離せとばかりにディジタリアの頬を小突く。
突き放されたディジタリアは、いや〜んと艶めかしく声を漏らしながらも主君に構ってもらって満更でもない様子である。
―――全く、困った臣下だ。
かつての激闘でグラジオに一撃浴びせられたのもあり、今の器のままでは形を保つのも限界に近い。
積年の憎悪により最早、魂たる精霊体は瘴気の塊となり、器の肉体もその瘴気に耐え得る強靭なものしか使えなくなった。
早く新たな肉体に乗り換えねば穢れた魂から溢れ出る瘴気が暴走し、自我を失うだろう。
故に―――。
「ところで…、例の計画は順調か?」
そんな改まった問いに、ディジタリアは実に愉快そうに不気味に笑った。
「ええ、勿論です。あとは彼の心を壊すのみ…。丁度引き金に出来そうな存在も見つけました。私もそろそろ皮の取り替えが必要ですし、ご一緒に衣替えと参りましょう…」
悍ましい言葉とは裏腹に、淑女のような所作で頭を垂れる臣下に、クローヴァルトは満足気に口角を上げる。
「期待している…、が、油断はするなよ?ヴォタニカリアの連中には特にな…。グラジオは我が器なだけあり、中々の切れ者。加えて、異世界の聖女も機転が利くと噂だ。エレウシネのように不意を突かれるなよ?」
「はい、肝に銘じますわ…。って、あら!もうこんな時間!嫌だわ、御目付け役に気付かれちゃう!嗚呼、名残惜しくは御座いますが、そろそろ御暇致します。御機嫌よう…!」
君主の忠告をよくよく胸に刻む中、懐中時計を見たディジタリアは吃驚仰天。
あたふたと体を翻し、カチャカチャと虫の足を鳴らしながら、玉座の間を後にした。
再びの静寂の中、徐に腰を上げたクローヴァルトは月明かり差し込む窓辺へと歩み寄る。
そこから見えるは、場違いなほどに美しい青き湧き水満ちる泉と沙漠の花々。
楽園のような光景ながら、その泉の底には夥しい数の墓石が沈む。―――否、命を削り取る過酷な沙漠の風に吹かれて朽ち果てぬよう、清らかな水の中に彼等を隠したのだ。
「嗚呼…シレネ…、もう少しだ…、もう少しで…」
恋焦がれるように墓石の一つを見つめ、クローヴァルトは首に下げたかつての己の魔力結晶を楔帷子のグローブで握りしめる。
引き攣る瞼を伏せれば思い出す、遠い遠い記憶。それは今いるこの不帰の大地がそう呼ばれるようになる遥か昔―――。
この地にはニンファエアと呼ばれる水の魔術を得意とする遊牧民が暮らしていた。
彼等は馬と共に大地を駆け、緑と命を愛する人々だった。野に生きた動物たちの骨で楽器を拵え、独特な民謡を奏でてはその歌声で沙漠の大地に雨を呼んだ。その雨は荒野をオアシスや草原へと変え、過酷な土地に生きる命を育んだ。
闇の精霊王であったクローヴァルトは、そんな彼らを愛し見守った。ニンファエアの人々も空に星を輝かせ、安らぎの夜を齎す彼を慕い、その存在を敬った。特に雨呼びの巫女と呼ばれる歌い手の少女シレネは、クローヴァルトによく懐き、彼もまた愛らしいシレネを一際に愛した。
けれど―――、ある時、北から来た移民共が彼等を襲った。
土地を奪う為の虐殺だった。
光の世を仇なす闇の精霊王を祀る邪悪な部族として―――、ニンファエアは命乞いすら許されず皆殺しにされた。その遺体は悉く磔にされ、巫女であったシレネに至っては移民共の長の慰み者にされ、最期には見世物として首を落とされた。
挙句、彼等の骸を見下ろすように移民共はその亡骸の上に国を築き、彼等に唾吐くように街で溢れたゴミを彼等が潤した大地へと投げ付けた。
愛したニンファエアの命も尊厳も全てを踏み躙られ、安らぎの闇を司る精霊王は激昂の果てにその役目を放棄し、移民共の街はおろか大地そのものを穢す者と成り果てた。
しかし、瘴気に穢れた精霊の体では自我を保つのも難しく、霊体に近しい為に物体に触れることも叶わない。故に受肉する必要があった。
精霊王から堕ちて千年、病や戦で力尽きた獣や人の屍ばかりを器として転がしてきた。けれど、腐りゆくその肉では十日と持たずいつまで経っても憎き者等の脅威にはならなかった。生者に乗り移ろうとした事もあったが、肉体の持ち主である魂に拒絶され、上手くは行かなかった。
ところがある時、塒にしていた谷に年老いた男が落ちてきたことがあった。その者は優れた魔術師であったが信じていた弟子の奸計に遭い、地位も名誉も奪われ絶望し、今際の際にあった。
どうせ死ぬならと試しに憑依してみれば、あっさりと乗っ取れた。その上、驚くほどに体が軽く死にかけだったとは言え、肉体の持ちも段違いだった。
――精神の弱った肉体ならば、魂が残っていても乗っ取れる。
そう気付いてから試行錯誤を繰り返し、魔力の高い死に急ぐ者に次々と乗り換え、その度に力が漲り増して行くのを実感した。
必要ならば闇の精霊の特技である幻覚で力ある者を追い込み、健全な肉体を奪った。
そうやって生きた人の体に憑依すること約二百年。気付けば魔王と言い呼ばれ、国と言うには粗末ながら虐げられてきた者たちに因る組織を築いた。
配下となった者達には闇の精霊王の名残である力の加護を授けた。しかし同時に己の放つ瘴気により凶暴化し、正気を失う者も少なくなかった。故に枷を着け、必要ならば引導を渡した。
どれほど残酷でも醜悪でも―――、最後には腐り崩れるこの魂がどれほど酷かろうと、全ては愛したニンファエアの人々を否定した世界を滅ぼす為―――。
底無しの恨みを糧に、クローヴァルトは世界を脅かす悪への道へと歩み続けていた。




