宴の後
夜も更けた頃、晩餐会改め舞踏会に参列した紳士淑女が各々の馬車で帰路に着く様子をグラジオは一人、充てがわれた客室の窓から眺めていた。
――少し、冷静になれる時間をください…。
それが薄闇の温室で彼女が捻り出した返答だった。
元より異性に対して初心なのは気付いていたが、こちらの好意には相当驚いた様子だった。
故にあの後は大広間には戻らず、そのまま客室へと帰した。
いくら機転の利く彼女でも流石に繕えないだろうし、社交場は有ること無いこと噂話が飛び交う。クレマティス子爵との対決で啖呵を切った手前、ゴシップ好きなご婦人方の格好の餌食だ。
彼女を部屋に送り届けた後、グラジオ自身は一旦大広間に戻り、ガザーニア帝には一足早い退席を告げた。
当然のように皇帝は姿の見えな彼女を気遣い、医官の手配を申し出たが、ここまでの旅の疲れに因るものだとはぐらかし、着替えと湯浴みに必要な女官のみで後は静かに願う旨を伝えた。
まさか色恋沙汰で茹で上がっているなど―――、彼女の矜持の為にも伏せねばならなかった。
「失礼致します」
そろそろ寝所に就こうかと考えていた矢先、ドアを叩く声がした。
誰かと出てみればガザーニア帝の近侍で、皇帝からの呼び出しとの旨であった。
急ぎ部屋を出る準備を済ませ、出向いた君主の執務室。時間的にロマーノ行きに関するトラブルかと身構えたが、扉を開いた瞬間あからさまに胸を撫で下ろした。
応接テーブルに並べられた軽食と言うには豪華な食事とワイングラス。ひと目で夜食を兼ねた寝酒に誘われたのだと理解した。
「おお、来たな」
まるで世話好きな伯父のような反応で、ガザーニア帝は早く座れと手招き。
民衆が周知する厳格な大国の君主からは想像も出来ない柔らかな笑みは二十五年来の付き合い故か―――。
このお方と初めて対面した時、グラジオはまだ年端もいかぬ幼子だった。慣例に倣って王子としての教育が始まり、その手始めの実践としての謁見の場にて、獅子の如き玉座の姿に気圧され、泣き出してしまったのが始まりだった。
幼くても国交の場での粗相は許されぬのが常であり、慌てふためき弁明する両親よりも早く、ガザーニア帝は泣きじゃくる自身を抱き上げ、あやしてくれた。
最初は怖かった金の瞳も近くで見れば太陽のようで、逞しい腕の温もりは陽だまりのようだった。
今となっては恐れ多いが以来よく懐き、事有る事に姿を見かけては追い掛けて回った。その度に陽だまりのような掌で頭を撫でてくれた。
思えばガザーニア帝はあの頃、病や戦で立て続けに弟君や子息を亡くし、寂しさの中にあったのだろう。大国の君主故に表には出せなかった家族思いな男の素顔にグラジオは惹かれ、親しみを持ってその背を追い掛けた。
そんな彼をガザーニア帝も我が子のように可愛がった。年の近い子息を集めて一緒に街に出かけたり、本来は嫡子にしか伝授してはならない筈のキトリア皇家秘伝武術の稽古を付けてくれたりもした。
その経験が父の嫌疑で廃嫡され、フィーユの砦に流された後の彼に生き残る術を与えてくれた。更には警戒厳しい砦へと密かに手紙を寄越しては「辛ければ逃げて来い。養子に取ってやる」と励ましの言葉を届けてくれた。
正直、いっそ言葉に甘んじて逃げてしまおうかとも思った時期もあった。
しかし、実父を弑逆した者への復讐心とこれまでの恩義からこれ以上の迷惑は掛けられぬと地獄を耐え抜き、己を鍛え上げた。
時を経て近衛魔導騎士団長として挨拶に出向いた時には涙ながらに再会を喜び、直後のオルクトーフェでの討伐では有り余る褒美を与えてくれた。
――朕はいつでもお主の帰りを待っている。
国に戻る時、掛けられたその言葉は最早、グラジオにとって実母マーガレットの労いよりも重く、この十年、度重なる祖国から各地への遠征における心の支えだった。
「いやはや、お前の為に取っておいた文字通りの取って置きだ。さあ、飲んでくれ」
ウキウキとワインボトルの栓を捻り、ガザーニア帝はグラスへと真紅を注ぐ。
会釈の上で対面の席に就き、真紅が揺らめくグラスを迷うこと無く手に取った。
貴族の礼儀として先に口をつけ、芳しい雫を舌に転がす。
思わず唸った。
流石はキトリアの君主だ。
深く芳醇な味わい。
実に良い酒である。
何よりこれは珠希が好きそうだとも思った―――が、生憎ここには居ない。それが惜しくて堪らない。
隣りにいたらきっと弾けるような笑顔が見られただろう。
「前回はこうしてゆっくり飲み交わす暇も無かったからな…。十年越しの成人祝だ」
そんな台詞を添え、ガザーニア帝は懐より掌大の銀細工を取り出した。
促されるままに蓋を開けてみて、グラジオは溢れ出る魔力に絶句した。
見た目は懐中時計。しかし、その中身は幾重にも書き重ねられた封印魔法により厳重に封じ込められた琥珀の如き奇跡の輝き。
それは本来、精霊の卵であるコクーンの成れの果て―――、何らかの原因で精霊に成り切れず結晶化した魔力の源だった。
「火の精霊王サラマンダリアの魔力結晶ではありませんか…!」
「御名答。ひと目で判るとは流石だな」
慌てふためく彼に対し、ガザーニア帝は満足げにグラスを呷る。
グラジオは直ちに銀細工の蓋を固く締め、テーブルに滑らせるようにそれを突き返した。
「陛下、いけません。これはキトリアの国宝となる代物です。私個人が持って良いものではありません…!」
断固として彼は受け取りを拒む。
しかし皇帝はその大きな掌で、ずいっと銀細工を押し返した。
「受け取れ。お前はいずれ魔王クローヴァルトを討つのだろう?火は即ち光。かつての闇の精霊王を殺すにはこの程度の装備は必要な筈だ」
確信を持って告げ、ガザーニア帝は血の如きワインを豪快に己のグラスに注ぐ。
否を言わさぬ黄金の視線に射抜かれ、グラジオはしかと銀細工を受け取った。
「有り難く頂戴致します…!このご恩は必ず…!」
「まあ、固くなるな。これは魔王討伐の前祝いだと思え。さあ、飲んだ飲んだ…!」
今ほどとは打って変わっての和やかな声色。遠慮する間もなく並々注がれた。
全くもって困ったお人だ。
折角一流のソムリエが管理してくれた上等な一杯が温くなる前にと、これから待ち受ける死闘への覚悟を決めるように一気に飲み干した。
「…時にグラジオよ、やはり朕の息子となる気は無いのか?」
そんな問いに流し込んだ最後の一口を吹き出し掛け、咄嗟に耐えてゴクリと喉を鳴らした。
実に唐突。堪らず苦笑い。
随分前にも丁重にお断りした筈だ。
「まだ嫁ぎ先の決まっていない姫達もおる。お主が望めば、一人や二人…」
食い下がるようにガザーニア帝はそう言うが、グラジオは手を翳して皇帝を制した。
「生憎、私は魔法しか能が無いもので…、政は向いておりません」
「だが、元はお主も…」
「もう二十年も前のことです。今となっては政争を勝ち抜く牙は持ち合わせておりません」
最早、常套句。
祖国ヴォタニカリアでも然り信頼を寄せ、慕ってくれるのは良いが皆、諦めが悪すぎる。
グラスに僅かに残った真紅の残滓を見つめ、彼は物思いに自らが口付けたその縁に指を滑らせた。
「それに…、今は可憐な花を見つけてしまったもので…」
微かな酔いに足を組み、徐に持ち直したグラスを鼻に寄せて残る香りを楽しむ。
その目に映る恋煩いの兆候に、ガザーニアは閃いたように口角を上げた。
「ならば、いっそ手折って連れてきてしまえば良い。妾の一つくらい許容出来ぬ娘達では…」
「陛下、それは御息女方に失礼ですよ?」
ぴしりと入ったお叱り。
途端に皇帝はこりゃ失敬と戯けてみせた。
「そもそも悪どく手折ってしまったら、きっと彼女は枯れてしまいます。陛下も言われたではありませんか。異なる土地より招き入れた命の責任は、招き入れた者にあると…」
豪勢にテーブルに並べられた大皿から甘味を頂きつつ、グラジオは更に追撃。
すると、グラスを傾けようとしていた皇帝はキョトンと目を丸くした。
「何だ、惚れとる相手は聖女殿か…」
しまった、墓穴を掘った。
丁度口に含んだフランボワーズの酸味が舌に染みた。
「まあ…、確かにあの娘は異彩を放ってはおるが…、何というかな…、朕の見立てでは、あれでは尻に敷かれるぞ?」
悪くはないが変わった趣味だとばかりに皇帝は言葉を濁す。
職人肌で野性的な彼女は貴族令嬢にはいないタイプだ。その面白みに惹かれたかと言われれば否定は出来ない。
「彼女になら、それも悪くありませんね…」
意地悪のつもりでそう言うと、ガザーニア帝は一瞬、目を見開き、そして大笑い。
これは重症だと膝を叩いて笑い転げた。




