王子の覚悟
夕刻、王宮の一角の執務室にて突き付けられた現実を前に第二王子ローレンは頭を抱えていた。
いつかこの日が来る事は覚悟していたが、国璽入りの書簡として目の当たりにすると現実味を帯びる。
―――ヴォタニカリア王国王太子。
その肩書を背負う覚悟を示す誓言の下には己のサインを入れなければならない。
提出期限は明日。
次の夏至祭で立太子式典の開催が決まった手前、間に合わせる為にはこれ以上先延ばしには出来ない。
一月以上前に第一王子である兄とも話し合ったが、兄は頑なに復権を拒み、このまま王太子となる事を諭された。今この国にいる王位継承者は最早己しかおらず、王位の冠を拒むことは赦されなかった。
「…僕よりも兄上の方が相応しいのに…っ…」
そう呟きを漏らしながらも羽根ペンにインクを浸し、迷いを文字に移さぬ内にと粗暴なサインを施す。投げるように羽根ペンをペン立てに投げ入れ、ベルベットの背凭れに体を倒して天井を仰いだ。
力任せに書き入れた名は、己の文字とは思えないほどに荒々しかった。
初めて兄に会ったのは十年前―――、フィーユ半島から戻った兄達の凱旋式の場だった。
華やかなパレードを彩るように、兄はケンタウロス族の戦士の証しである緋色のマントに竜人族だけが作り出せる黒鐵鱗の鎧で全身を覆い、その顔を人魚族の伝統工芸品である螺鈿の仮面で隠していた。
人々は仮面で尊顔を拝めないと嘆いていたが、当時の兄は魔王との激闘で左の頬から額に掛けて直視に堪えぬほどの酷い火傷を負っていた。
母の依頼で治癒魔法を施したが、完全に消し切るのに丸一年を要し、体の火傷に至ってはケロイドを治すのが限界だった。
―――この世でただ一人、最恐とされた魔王に会心の一撃を与えた偉大なる兄。
その身に残る歴戦の勲章を消すのは惜しくもあったが、呪いのように疼く痛みから助けたかった。
王子としての勉強の傍らで必死になって魔法を学び、治癒魔法の腕を鍛えた。時には魔物討伐に同行し、衛生兵として兄の背中を支えた。
素朴な憧れだった。
この人にこそ冠が相応しいと、王になって欲しいと心から願った。
願っていたのだが―――。
「ローレン殿下、失礼致します。アリスにございます」
ノックの後に響いた声に弾かれるように姿勢を正す。
王子としての姿勢を取り繕い、どうぞと声を返した。
開いたダークウッドの扉より、静々と入室したのは現聖女付き宮廷女官アストルム侯爵令嬢アリスだった。
「失礼致します。ご依頼の品をお持ちしました」
華麗なカーテシーの後、アリスは几帳面に銀製のプレートに並べた品々を書斎机の上へと差し出す。
城下の職人に修理を頼んでいた時計や魔導書、徹夜仕事のお供の気付け薬。その中に混ざって頼んでいない砂糖菓子が置かれていた。
「これは?」
「外出許可を頂いたお礼です。ナズナも良い息抜きになったようで…。明日も引き続き、彼女の見守りを続けます」
楽しかったとばかりに笑みを添えた言葉に、ローレンは安堵の溜息。
気を取り直すように羽根ペンを取り、眼前に積まれていた書類に手を伸ばした。
「すまない、君も忙しいのに…」
「いいえ、とても楽しいひと時になりました。殿下こそ、あまり根を詰め過ぎないでくださいね」
「うん…、解ってる…」
生返事で答え、次の書類に手を伸ばす。
刹那、目の前を遮るように置かれた掌。
視線を向ければアリスは不貞腐れたように眉間に皺を寄せ、かと思えば、気味悪い程にニッコリと口角を上げて微笑んだ。
「解ってないから言ってるんです。それに、お兄様に振られちゃったなぁ。お兄様が居なくて淋しいなぁ…って顔に書いてありますよ?ブラコンも大概にしてくださいね?妬きますよ?」
顔の微笑みとは裏腹に、機械じみた真似素振りに怒り混じりの声が窘める。
これは不味い。目が笑っていない。
直ちにペンを戻して書類を一旦片付けた後、椅子を引いて起立。
煽てるように彼女の肩を抱き、共にソファに腰掛けて膝の上に抱き上げた。
「ごめんよ、アリス…、頼むから機嫌治して…?」
お姫様抱っこで機嫌を取りつつ、剥れる頬を撫でる。
対するアリスはウザいとばかりにその手をペシリと叩き、脚も腕も組んでご立腹。完全にご機嫌斜めモードだ。
―――これはやってしまった。
このところ多忙を理由に業務連絡ばかりでろくに相手をしなかった。彼女は一度拗ねると、ひと月ふた月は尾を引く。最悪、口も聞いてもらえなくなる。
「治して欲しかったら王太子らしくして頂戴。いい加減、腹括らないなら婚約破棄するわよ?」
脅し文句に、肝が冷える。
深呼吸で己を落ち着け、ローレンはアリスをソファに下ろして向き合った。
「解った。振る舞いを改める。唯ね、君は良いのかい?僕が王太子になったら君は…」
そう言いかけた矢先、キュッと鼻先を抓まれた。
中々の強さに加え、立てられた爪が若干食い込む。
「覚悟なんてとっくよぉ?王妃教育が始まるまで今は好きにさせてもらってるだぁけ!権力に興味は無いけど、下手な妃を据えて先王の二の舞だけは避けなきゃいけないからねぇ?国家の諜報員の方が私には合ってるんだけどね〜?」
そう吐き捨て、アリスは作り笑顔のまま鼻をもぎ取りそうな勢いで右へ左へと揺らす。
彼女の生家、アストルム家は表向き大規模貿易商人の家柄であるが、その人脈を活用して王家の諜報係を担っている。
アリス自身も表向きは女官として静々と務めているが、その実、王宮に蔓延るゴシップに耳を欹て、王家に反旗を翻さんとする派閥に目を光らせている。
「ローレンだって解ってて私と婚約したんでしょ〜?私の偵察能力と情報網が欲しかったんだよね〜?」
そんな駄目押しと共にピンッと鼻先を引っ張られ、漸く解放。
残る痛みを擦りつつ「そうだけどさぁ…」とボヤキを零した。
「それにグラジオ殿下が復権なんてしたら、珠希様とくっつけられないじゃない。最近、中々良い雰囲気なのよ?事あるごとに珠希様に寄り添って…、うん、あれは絶対、珠希様に惚れてるわ…!解る。凄く解る!あの快活で野性的な仕事姿に対しての素朴で飾らない人柄…!爽快にお酒を呷るかと思えば上品に紅茶を嗜み、寝酒の憂い顔と来たら…!あんなに魅力的な女性を放っておける訳ないわ…!嗚呼、きっと今頃、船の中で…!はぁ、お二人の帰国が楽しみだわ…!早く珠希様をお姉様とお呼びしたい…!」
再び腕を組み、アリスは怒っていたかと思えば、珠希とグラジオの仲を考察して独り言が止まらない。
恍惚とする秘密の婚約者にローレンは徐に腰を上げて、貰ったばかりの砂糖菓子の包みを広げた。
「兄上と藤崎女史を恋仲にしたいのは勇者殿の言う神託実現の為?」
元いたソファに戻り、伺いながら砂糖菓子を差し出す。
「まさか。野暮な事言わないでくれる?純粋なる推しの応援よ…!」
キッと目付き鋭く、アリスは否定。
雑に砂糖菓子を摘み取り、投げるように口に放り込んだ。
「…ところであの生意気勇者、この一ヶ月でまともになったわね。何か知ってる?女官達の間でも急に礼儀正しくなったって噂なの」
はたと思い出したように訊ね、彼女はまた砂糖菓子へと手を伸ばす。
どうやらお腹が空いていたのもご機嫌斜めの原因らしい。
「嗚呼、多分ランサス副長だよ。発破を掛けるにフィーユ半島での事を話したって言ってたから」
答えつつローレンはコリコリと砂糖菓子を咀嚼する口へと一粒摘んで寄せてみせる。
アリスは雛鳥のようにパクリとそれを啄んだ。
「成程…、魔王の恐ろしさを思い知ったってことかしら」
そう納得しつつ、口元の砂糖を舐め取りながらアリスはすっくと起立。
徐に書斎机の上に置いたままだった銀プレートを手に取った。
「お茶淹れてくるわ。お夕飯も持って来ましょうか?」
振り返りざま、退室の挨拶代わりに彼女は不敵に微笑む。
どうにか機嫌を治してくれた婚約者に、ローレンは困ったように肩を竦め、宜しく頼むと返事した。




