師弟
嫌いな血と消毒液の匂いがした。独特の病院の匂い。
瞼を開き、見えたのは知らない天井。
重怠い身体を起こし、スイバはキョロキョロと辺りを見回す。同時に自身に掛けていた変化魔法が解けていることに気付いた。
この元の姿は自身の一族ラウラセア最大の特徴であり、聖樹教や国の人間に見つかれば殺されてしまいかねなかった。
身を守るため正体を隠し、常に人族に化けていたのに―――。
ふと間近に聞こえた誰かの寝息。呼吸の音を辿り、そこにあった姿に目を剥いた。
ベッドの真下、板間の床に茣蓙と毛布を敷いて珠希が丸まって寝ていた。
「…そうやって一晩中、君を守っていたんだよ?」
そんな声にハッと振り向き、思わず身構えた。
ローレン王子暗殺の為に渡された小刀を持ったグラジオだった。
「安心なさい。此度の件は無罪放免とすることが決まった。聖女を守った恩赦も下りている。礼拝堂にいたナズナも既に保護した」
そう宥めながら彼は身を強張らせるスイバの頭を撫で、爆睡のあまり口元から涎を垂らす珠希に、その腰元で団子になったブランケットを掛け直した。
「あの、一先ず何で、珠希様がここで…?」
「当人が頑なでな…。ベッドの空きも無く、苦肉でそこに寝てもらった。代わると言っても、聞いてもらえなかった。どうにも君を蹴飛ばした事を根に持たれてしまったらしい…」
苦笑いのグラジオに事の顛末は大凡理解した。
此度の件で処罰を受けることを良しとしなかった珠希が座り込みを実施したのだろう。
「…サイペルスの皮は知り合いだったのかい?」
はたと掛けられた問いにスイバは、途端に顔を強張らせた。
暫しの沈黙の後、泣きそうになりながら彼は頷いた。
「…従兄のシィバです。粛清の時、一緒にフィーユ半島まで逃げたけど…、一族の記録書を取り戻しに…戻っちゃって…っ…ずっと…連絡が取れなくて…っ…」
そこまで話した所で耐え切れず、わっと嗚咽を漏らした。
従兄のシィバは罪無き罪により一族の大人達が次々に捕らえられて断頭台へと連れ去られる中、フィーユ半島まで一緒に逃げた人だった。
フィーユ半島には魔族が多く、身を隠すには最適で、もう王都には戻らない覚悟だった。
しかし、シィバは一族の叡智を奪われまいと代々書き続けていた聖園の記録書を取りに単身王都へ。初めこそぽつりぽつりと届いていた記録書と無事を伝える手紙があったが、一年が経った頃、パタリと届かなくなった。
何があったのか知る術もなく、過ぎゆく日々の中、昨年、王都へと来るようにとの連絡が入った。
罠ではないかとも考えたが、寄越された手紙は確かに従兄のもので、意を決して人族に化けて戻った王都でスイバは再会を果たした。それが従兄の皮を被った、邪悪な存在とも知らずに―――。
(サイペルスに限らず、昆虫型魔族の多くは寄生棘を持つ…、運悪く目を付けられたか…)
泣きじゃくるスイバに、グラジオは憐憫の目を向け、そっと蹲るその背を擦った。
残酷な現実だが、此度交戦したサイペルスは寄生棘――スイバに襲い掛かったあの黒い矢を植え付けられた分身だった。
寄生棘は魔力蓄積能――この世界の生物全てが持つ、魔力を身体に溜めておく能力が高い者なら抵抗でき得るが、そうでない者は刺された瞬間に毒で脳を破壊され、身体は本体に操られてしまう。
更にサイペルスは寄生した者の記憶すらも読み取り、あたかも本人のように振る舞う狡猾さを併せ持つ。
「すまない。フィーユの戦いで魔王を斃せていれば…」
後悔を漏らすグラジオに、スイバはフルフルと首を振った。
今この国に生きる者でその戦いを知らぬものは居ない。
今より十年前、フィーユ半島に襲来した魔王クローヴァルト率いる軍勢と対峙した彼は、その卓越した魔術と画期的な戦略によって数万にも昇る敵兵を屠り、魔王軍随一の強さを誇った三貴将の一柱エレウシネをも仕留めた。更には撤退する魔王の右目を奪う快進撃を見せ、その功績から最年少で近衛騎士団長の座に就任。
そんな彼を恐れたのか魔王はこの数年、根城を構える不帰の大地に身を潜め、代わりにその配下が此度のように度々各地で挑発行為を繰り返していた。
――彼らの目的は一体何なのか。
何故、魔王クローヴァルトは悪戯にこの世界を脅かし続けるのか。
まるで悪役を演じるように各国へと戦いをけしかける彼らは不可解な存在だった。
「ところでだが…、この小刀はキナン殿の形見だね?」
ふと気を改め、グラジオはスイバに小刀を差し出した。
鞘に刻まれたクスノキの紋はラウラセアの物だった。
「父上を知ってるの?」
涙に濡れた目を丸くし、スイバは訊ねた。
その眼は曇り空に光が差したようだった。
「キナン殿は私に生きる理由をくれた方だ。彼の言葉がなければ、私はフィーユ半島で生き残れなかったよ」
そう答えて、そっとその手に小刀を渡した。
スイバは堪らず父の形見を抱きしめた。
「…それを見せられて、サイペルスの正体を見破れなかったのだね?」
グラジオの問いに、スイバは涙を拭いながら小さく頷いた。
「これを取り返すのに時間が掛かったって…、一族の記録書を取り戻すのに、聖樹教に忍び込んでいたと言われて…、聖樹教はっ…、城の礼拝堂に、一族の記録書があるって…」
「成程。それで君達も聖樹教の孤児院に潜り込んだ訳か…」
事の顛末にグラジオは納得とばかりに溜息を零した。
一族を滅ぼした教会の孤児院に忍び込み、息を潜めながら、一族の宝を取り戻す機会を伺っていた―――、凄まじい胆力である。
「ごめんなさいっ…、俺がサイペルスに騙されなければ…、珠希様まで危ない目に遭わなかったのにっ…、珠希様は本物だったのに…っ…」
後悔に拳を握り、スイバは込み上げる涙に言葉を詰まらせた。
あの頃の彼にとって、聖女は敵だった。聖樹教の手下にして一族を滅ぼした憎き存在だった。
国がまたも召喚術を行い、異世界から呼び出したと聞かされた時は虫唾が走った。
―――あんな悪女がまた聖樹を、精霊エルフィエナを苦しめるのか。
ならば、いっそ殺してやる…!
そのどす黒い思いから珠希に近づいた。
懐いたように見せかけて油断させ、その首に刃を立てんと―――。
けれども、彼女は本物だった。聖樹をあっという間に治し、皆の庭も取り戻してくれた。
共に過ごす内、その人柄に惹かれた。快活で勇敢で所々うっかりでお茶目な女性。
従兄に化けたサイペルスからは再三、親兄弟の仇だと決断を迫られた。
揺れ動く心のあまり結論を先延ばした。
楽しくて、面白くて、心地の良い珠希との時間を失いたくなかった。
その結果がこの最悪の今に繋がった。
「…お願いがあります」
涙を飲み込み、ベッドの上で正座したスイバはまるで命乞いするように掌をリネンに揃える。
そして、蹲るように背を丸めて、グラジオへとこの上なく深く頭を下げた。
「どうか妹のナズナだけは、珠希様の下に残しては貰えないでしょうか?今回の事は全て俺が騙されたのが原因です。妹はこんなこと止めようってっ…だから妹はっ…!」
「バカ言ってんじゃないわよ」
そんな怒り混じりの声が、懇願する彼の言葉を遮る。
えっ?と顔を上げてみれば、珠希が気怠そうに床で胡座を掻いて伸びをしていた。
「あのねぇ、私ももう三十路よぉ?体力的にあと十年もしたら今みたく軽々と木には登れなくなってくるの。私が現役で動ける内に後継者を育てなきゃいけないのに、有望株に逃げられちゃ堪んないっての。悪いけどナズナは高い所苦手だし、鋏に迷いが多いから育てるに時間が掛かる。スイバ、アンタが頑張んなさい?」
寝起き眼で欠伸を掻き、珠希は逃さないぞとばかりに不敵に微笑む。
硬い所で寝ていて腰が痛いと起立した彼女は、今一度伸びをして眠気を振り払った。
「だけど…」
尚も気負いするスイバ。
すると、珠希はにっと悪戯な笑みを浮かべて、ガシリと悄気る頭を掴むや乱暴に撫で回した。
「やっちゃった事は仕方ないっての!これからの挽回が大事…!幸い、まだ取り返せる失敗じゃん?それに、スイバはお父さんの…ラウラセアの手法を見てるんでしょ?なら、これまで通り私が基本を教えれば出来る筈。場数よ、場数…!」
此度の事など些末なものだと言わんばかりに、珠希は快活に言い聞かせる。
彼女自身、元の世界では機械操作や車両運転でしくじって結構やらかした身であるが、仕事仲間の手助けのお陰でどれも大事には至らなかった。事故処理後にどうしようもなく落ち込んだ時には、飲み会がてらこんな風に先輩や上司から励ましてもらった。
生きている限り、仕事を頑張っている限り、失敗は付き物―――、重要なのはもう同じ過ちを繰り返さず、その経験を生かして取り返しの付かない失敗に繋げないことだ。
「………、俺達でっ…良いのっ…?」
優しい彼女の手にポロポロと泣きながら、スイバは訊ねる。
すっかり泣き虫小僧な彼に珠希は困ったように眉を下げ、勿論だと頷いてみせる。そうして早く元気出せとばかりにニッと笑った。




